南方録12

小座敷の話。

○小座敷ノ料理ハ、汁一ツ、サイ二カ・三ツカ、酒モカロクニスベシ、ワビ座敷ノ料理ダテ不相應ナリ、勿論取合ノコク・ウスキコトハ茶湯同前ノ心得也、

○小座敷ノ花入ハ竹ノ筒、籠・フクベナトヨシ、カネノ物ハ、凡四疊半ニヨシ、小座敷ニモ自然ニハ用イラル、

小座敷つまり四畳半以下の草庵は草であり、四畳半以上の広間は真である、という定義が、南方録にはある。

行はどこに行ったんだろう?というのはまぁ置いておいて。

真の茶をすべき広間で、どういう茶をすべきかの定義が全然ないのだった。

南方録は「小間の茶はこうすべし」というのはいっぱい教えてくれているんだが…。


おそらく武家の広間の茶が念頭にあって、それは読者には自明だから書かなかったんだろう。それは利休時代の広間の茶と違うものだと思うんだが…。

そのおかげで南方録の広間の茶はわりと漠然とした真のお茶足り得ているのかもしれない。

南方録11

○掛物ほど第一の道具ハなし、客・亭主共ニ茶の湯三昧の一心得道の物也、墨跡を第一とす、

超有名な一節である。…もしかすると現代の茶の湯をこんな風にした一節である。

天正茶の湯は、必ずしも墨跡を掛けるとは決まっていなかった。
墨跡は愛好されたが、印加状とかの堅苦しい横物で、よっぽどの名物で、機会も限られていた。

この一節がなければ、茶の湯では必ず床の間に掛軸を掛ける、とはならなかったかもしれない。

其文句の心をうやまひ、筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也、俗筆の物ハかくる事なき也、されども哥人の道哥など書きたるを被掛る事あり、

書いた人を敬う為に掛けるので、俗人の筆は掛けない。でも歌は掛けることがある。

ここの部分、あいまいかつ、歯切れが悪い。

四疊半にも成てハ又一向の草菴とハ心もち違ふ、能々分別すべし、

四畳半と小間では違う、と書いてあるが具体性はない。つまりこちらの判断に任されている。

佛語・祖語と、筆者の徳と、かね用るを第一とし、重寶の一軸也、
又筆者ハ大徳といふにハあらねども、佛語・祖語を用いてかくるを第二とす、

徳が無い筆者でも、文句がよければいい、と書いている。ぬるい。

繪も筆者によりて掛る也、唐僧の繪に佛祖の像、人形繪多し、
人によりて持佛堂のやう也とてかけぬ人あり、一向の事也、一段賞翫してかくべし、
皈依あるべき事、別而也と易の給ふ、

この文章、有名な「掛軸第一主義」を唱ったものだが、よく読むとぬるいのである。

「このグレードの僧侶」というのを規定せず、徳がない筆者でも許している。

そういう意味で大徳寺や家元の掛軸商売を支えたのも、この文章かもしれない。
これが「大僧正以上でないと掛けちゃ駄目」とか書いてあったら、これらの人はどうしたんだろう?

南方録10

○名物のかけ物所持の輩ハ、床の心得あり、
横物にて上下つまりたらば床の天井を下げ、竪物にてあまるほどならば天井をあげてよし、
別のかけ物の時、あしき事少もいとふべからず、
秘蔵名物にさへ恰好よけれバよき也、
繪にハ右繪・左繪あり、座敷のむきによりて、床のつけやう心得て作事すべし、

名物の掛物があれば、それにあわせて床を切りなさい。
他の掛物のことは考えんな。その名物が良きゃいいじゃん。
絵の左右も考えて床は建築しなさい。

……という床の間に対する掛物優先論。


「茶道四祖伝書」での利休は、松屋さんが鷺の絵にあわせて床の高さを高くしたのを批判している。つまり掛物に対する茶室の優先論である。大いに矛盾である。

後者がいまいちメジャーでないのは南方録があまりにメジャーであること、「掛物ほど第一の道具はなし」という南方録に閉じた掛物優先論がこの後すぐ出てきて整合性が高いこと、あと密庵床のような、特定掛物専用茶室が現存することの三つが理由ではなかろうか?

というか「茶道四祖伝書」での、掛軸の余ったトコは床に垂らしとけ、という利休はちょっとぬる過ぎる気がする。
軸にあわせて建築し直せ、という南方録の利休の方が求道的である。

…とりあえず南方録は松屋会記は参考にせず書かれたっぽいな。

南方録9

○小座敷の道具ハ、よろづ事たらぬがよし、少の損シも嫌ふ人あり、一向不心得の事也、
今やきなどのわれひヾきたるは用ひがたし、唐の茶入などやうのしかるべき道具ハ、うるしつぎしても一段用ひ來り候也、

四畳半以下の侘び茶の道具は、なんか足りない感じでヨロ。
でも現代物の大したものでない奴は継いでまでつかわないよねー。
舶来なら別だけど。

…そういえば茶入の漆継ぎしたものは見たこと無いな。
九十九と新田はそうといえばそうだが…。

サテ又道具ノ取合ト申スハ、今燒茶盌ト、唐ノ茶入、如此心得ベシ、
珠光ノ時ハイマダ物ゴト結構ニアリシダニ、秘蔵ノ井土茶盌、袋ニ入テ天目同前ニアシラハルヽニハ、カナラズナツメ・今燒ナドノ茶入ヲ出サレシトナリ、

珠光の言う「和漢のさかいをまぎらかす」の話だと思うが前半が侘び茶の心得に対し、後半は取合せの話である。

前半にも後半にも今焼茶碗と唐物茶入が出てくるが、意味が全然違う。
前半は比較で、後半は取合せだもの。

この後半部分、後の付けたしだったりしないかな?
途中でカタカナになってるのも気になるし。

南方録8

○曉ノ火アイトテ大事ニス、
コレ三炭ノ大秘事ナリ、

「覚書」に秘事書いちゃうのはいかがなものか。
…「覚書」書いた段階での宗啓の伝授状況はどうだったんだろう?
秘奥まで進んだ後だったんだろうか?

易ノ云、曉ノ湯相ナレバトテ、宵ヨリ湯ヲワカス人アリ、
一向左樣ニテハナシ、鳥啼テ起テ炉中改メ、下火ヲ入、一炭シテ、サテ井ノモトヘ行テ清水ヲクミ、水ヤニ持參シ、釜ヲアラヒ水ヲタヽヘ、炉ニカクル、コレ毎曉茶室ノ法也、

暁の湯相といって、朝起きてから諸々の準備をしたお湯がナイスなのである。
前の晩から沸かしっぱにするのはよろいくないぞ。
そう利休は言っていた。

コノ火相・湯相ヲ考ヘテ、客モ露地入スル也、
客ニヨリ思ノ外早ク入テ、初ノ下火ノ炭、ヌレ釜ヨリノハタラキヲ見ルモアリ、
主客トモニ曉ノ次第、大凡ニテハ成ガタシ、

客もこれを考えて客入りしろ。難しいけどな。


この部分、茶の湯を僧侶の修業…まるで典座の様にとらえ、茶禅一味を唱えているのだと思う。
朝早起きして火を焚いて湯を沸かし…という毎日を送る事自体が清めであり修業であると。
室町の茶の湯の茶人の条件の一つが常釜だったことを考えると隔世の感である。


そしてそれを利休が語ったということは、利休もそういう生活をしているということになり、後に利休のことを清貧の侘び茶人の様に誤解した人が出たのもむべなるかなという感じである。

南方録7

○或人、炉ト風爐、夏・冬茶湯ノ心持、極意ヲ承タキト宗易ニ問ワレシニ、
易コタヘニ、夏ハイカニモ涼シキヨウニ、冬ハイカニモアタヽカナルヤウニ、炭ハ湯ノワクヤウニ、茶ハ服ノヨキヤウニ、コレニテ秘事ハスミ候申サレシニ、
問人不興シテ、ソレハ誰モ合点ノ前ニテ候トイハレケレバ、
又易ノ云、サアラハ、右ノ心ニカナフヤウニシテ御覧セヨ、宗易客ヘマイリ御弟子ニナルベシト被申ケル、
同座ニ笑嶺和尚御座アリシガ,宗易ノ被申ヤウ至極ナリ、カノ諸惡莫作・諸善奉行ト鳥窠ノコタヘラレタル同然ゾトノ玉ヒシ也、

説明不要と言ってもいいくらい超有名なフレーズである。


南方録の面白さは、利休がこういった、だけでなくその前後もつけてエピソードとして語っていることで、凡百の茶書であれば

茶の湯秘訣
一夏は涼しきよう、
一冬は暖かなよう、
一炭は湯が沸くよう、
一茶は服のよきよう」

と箇条書きにするとか

「宗易、茶の湯の秘事とて、夏は涼しきよう、冬は暖かなよう、炭は湯が沸くよう、茶は服のよきようと語られ候」

と淡泊にするとかになっていただろう。

その場合茶聖 利休というイメージは形成されなかったんじゃないかな。

南方録6

○小座敷の花ハかならず一色を一枝か二枝かろくいけたるがよし、
勿論花によりてふわ/\といけたるもよけれど、本意は景氣をのミ好む心いや也、
四疊半にも成てハ、花により二色もゆるすべしとそ、

茶の湯の花は一色、というのは当時でも当然の感覚だったと思われる。
しかし、四畳半以上と以下で分けたりする格差意識は南方録独特かもしれない。

○花生にいけぬ花、狂哥に、
花入に入さる花ハちんちゃうけ
太山しきミにけいとうの花
女郎花さくろかうほね金錢花
せんれい花をも嫌也けり

この部分、下手な狂歌なのがすごい利休っぽくて好き。

和泉草が

不用花、鳳仙花、柘榴、桜、但シ糸桜ハ少シ用モスルト利休云シ也

とか無愛想に書いているのに比べ、楽しい。

ところでキンセンカって、江戸時代に日本に入って来た外来種らしいですよ。