埋れ草2

"わび"昭和15年8月号「不審庵について」より。

茶室不審庵については、既に本誌に発表されたように、篤学の学究の方々によって、熱心な研究が続けられていることは、私にとっては大きな喜びである。

この時期に不審庵研究がまとまりはじまっていたみたいだが…どんな研究だったんだろう?整理されて現代に伝わっているのだろうか?

この手の研究は昭和12年の茶道全集から後、あんまり整理されていない気がする。


江岑夏書にある、少庵の大徳寺屋敷(現在のと違う)について。

竹之ふた置、休初而切御出し候、京紫野門前へ少御上ル、竹ふた置にて茶湯なされ候、京衆肝をつふし申し候

竹蓋置は利休が創始し、少庵が京へ持ち込んで京衆を驚かしたという。


この屋敷の資料上の初出は天王寺屋津田宗及他会記。天正10年である。


しかしながら、竹蓋置の天王寺屋津田宗及他会記での初出は天正4年。かきや宗てつの会。おそらく京都である。


山上宗二記によると、竹ふた置は紹鴎創案で利休がひろめたもの。

状況証拠的には、(少庵の京屋敷が天正4年以前に遡れない限り)紹鴎経由で京衆は知っていたと言う方がありそうである。


というか、たぶん、少庵をヨイショする為に作られたエピソードなんだろうな。