茶会記の風景13 柳営

江戸徳川将軍家茶の湯について。

とまぁこんな調子で御成は進行したのだが、これだけのことで御成は済まされない。
義直の高級家臣十二人を含めた相伴衆のほかに、将軍の御供衆三百人に五・五・三の膳部

二百人の御徒歩衆と六十人の足軽衆には略膳部、二百人の御中間衆にも同じく膳部、さらに五百人の楽屋衆へも一日に三度の膳部が出されたので、これだけで延べ千五百人。
また派遣された御役人衆三十五人にも膳部の供応があったから、合計では優に二千人を超える。
(略)
御成は大名家を疲弊させるために、参勤交替や河川改修などの土木工事と同じような狙いで課したとする説も出される所以であろう。

規模デカ過ぎて、茶の湯の仲間として認識できねぇ…。
というか個人の数寄の範疇ではとっくにないね。

少なくとも家光の代になると、形式的には御成であっても、実体はごく簡単なものが多くなる。
(略)
そして次代の家綱は将軍職を継いだ時、いまだ幼かったため御成は一時途絶え、五代綱吉にいたり復活されたものの、かつてのように頻繁におこなわれることはなく、形骸化し、いつのまにか沙汰やみとなってしまう。

結局、御成の茶の湯の文化は徳川秀忠一人のものだったということか。

織部の直弟子で、自分の代で徳川の茶の湯を完成させ、終了させてしまった男。
旗本の子孫の方々が、茶の湯の正統を千家や遠州石州でなく、秀忠で終わったと認識しているのもむべなるかな、という事なのかも知れない。