南方録14

○紹鴎ワビ茶ノ湯ノ心ハ、新古今集ノ中、定家朝臣ノ哥ニ、
  見ワタセハ花モ紅葉モナカリケリ
   浦ノトマヤノ秋ノ夕クレ
コノ哥ノ心ニテこそあれと被申しと也

花紅葉ハ、即書院臺子の結構にたとへたり、
其花もみぢをつく/゛\とながめ來りて見れば、無一物ノ境界浦のトマヤ也、
花紅葉ヲシラヌ人ノ、初ヨリトマ屋ニハスマレヌゾ、ナガメ/\テコソ、
トマヤノサヒスマシタル所ハ見立テレ、
コレ茶ノ本心也トイハレシ也、

贅を尽くした事がないと侘びには達せないよ、という教え。

書院台子の茶が、贅として捉えられているのが面白い。

南方録において、書院台子の茶は、侘び茶の根本の真の点前であり、贅の茶である。

台子を資格であり秘伝中の秘伝である、という考え方とはほんの少しベクトルが違う気がする。

又宗易、今一首見出シタリトテ、常ハ二首ヲ書付、信ゼラレシ也、
同集家隆ノ哥ニ、
  花をのミ待らん人に山ざとの
   雪間の草の春を見せばや
これ又相加へて得心すべし、

世上の人々そこの山・かしこの森の花が、いつ/\さくべきかと、
あけ暮外にもとめて、かの花紅葉も我心にある事をしらず、
只目にみゆる色バかりを樂む也
(略)
この兩首は、紹鴎・利休茶の道にとり用ひらるゝ心入を聞覺候てしるしをく也、
(略)

自分の解説を書き留められた利休は、宗啓の内容確認請求に対し、こう奥付に残している。

右數々之雑談、御書留ニ成候而後悔之事欺、併相違之所存無之候、同敷ハ反古張ニ成候へかし、かしく、

じぶんのしたり顔の解説が記録されたら後悔だし、捨てて欲しいとも思うわな。

昔は「秘伝を書き残すとはいかがなものか」という事だと思っていたんだが、読み返してみると「恥ずかしい内容なので捨てて下さいお願い」って感じかな。