茶禅一味とか言うけど、茶人は本当に禅が好きなんだろうか?
お茶を習っているからといって「趙州はなんで無と答えたりしたんだろう」とか考えている人なんてほとんどいないと思う。私も思ってないし。
茶席に掛かる墨跡も「松無古今色」とか「清流無間断」とか、禅語というより季節ネタであって、禅僧が書く必要は無いものだという気がする。
かといって茶室に入ってお軸を拝見して「麻三斤」「南泉猫斬」とか書いてあったらどういう趣旨の茶会かと思うだろう。「乾しけつ」とか論外だ。
そういういい加減を嫌って、遠州は和歌の方に走ったのかもしんない。