2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧

6月の展覧会

なんか全国でボチボチと面白展示をしている。 特に北陸が面白い。 壺屋やちむんに行くというのもなかなかの酔狂。 東京近郊 期間 タイトル 備考 畠山記念館 6/9-6/12 藤田登太郎 畠山記念館 -6/12 光琳とその後継者たち 根津美術館 -7/10 若き日の雪舟 雨中…

松花堂昭乗7

昭乗の、墨と水のエピソード。 また昭乗は墨をも製して書いたといふ事が傳はつてゐる。 『譚海』(二の三六五)には「松花堂は生涯墨を製して書たる故、墨色にて眞跡はわかるゝ也」と記してある。とにかく斯道に熱心なる事を窺ふべき話である。 ほんまかいな?…

松花堂昭乗6

昭乗が江戸で将軍師範になる、選定のエピソード。 嘗て近衛信尋が東山銀閣寺に在つた時、幕府より将軍家光の書道の師の選定方を頼まれた。折しも本阿彌光悦が伺候してゐたので、信尋は今日本で書道を能くするのは誰であるかと問ふた。 光悦先づと一指を折り…

松花堂昭乗5

昭乗の、そして光悦の書の師匠に関しては「本阿弥行状記」に記載があるとのこと。 『本阿彌行状記』によると當時の三蹟の美しい話が載つてゐる。 即ち青蓮院門跡は近衛信尋・本阿弥光悦及び昭乗の三弟子が書道の傳を請ひ願つた時に、今日書傳殘らず濟んだ上…

松花堂昭乗4

昭乗の書について。 昭乗の書は世に瀧本流或いは八幡流と云ふ。 彼は諸流の長を合せたが、我が國上代書風の復興に於て其の功績偉大なるものがある。 而して近衛信尹・本阿彌光悦と共に寛永の三筆或は平安の三筆と云はれる。 松花堂昭乗というと「字がうまい…

女ひとり 70歳の茶事行脚

NHKドキュメンタリー。 出張茶事をもっぱらとする半澤鶴子さんが、数寄者でない市井の方々とお茶事がしたい、と、旅をする話。 海岸で、山里で、雪の会津で。その辺の人を強引にお茶に誘う。 雪ん中で野点茶事かいな。茶事4時間ですよ?凍えるぜ? ゴーイン…

松花堂昭乗3

昭乗の交友関係。 昭乗は終身男山にのみ居たのではない。 屡々京都・大阪へ往復し、江戸に至り家光に講し、また奈良に遊び尾州や賀州へ下向した事もある。 京都に於ては近衛三代(前久・信尹・信尋)の恩顧を蒙り、廣く公家に出入し、中院通村・烏丸光廣とも交…

松花堂昭乗2

昭乗の伝記の種本は二種。佐川田昌俊の「松花堂上人行状記」と中沼家譜の二種類。 佐川田昌俊は茶友。中沼家譜は一族である。 兄の元知は攝津に生れ、初めは喜多川與作と云つた。 幼少にして近衛信尹の御前に仕へたがその聰明にして人に勝れたるを認められ、…

松花堂昭乗

佐藤虎雄/河原書店/1938年。松花堂昭乗の伝記。 昭乗の父母の名は家譜にも記されず、全く不明である。 (略) 世に昭乗は豊臣秀次の落胤といふ説が傳へられてゐる。 之れは頗る興味のある説であるが確實なる資料がない。 若し事實だとすれば昭乗は秀次十五才の…

格好

街を歩いていると、弓が入った袋を持って歩いている人を時折見掛ける。 弓道をやっている人である。その度に「ああ、弓道ってあるなぁ」と再認識させられる。 弓は、弓道のアイコンだからだ。街中で歩いていて、和服の人に会っても「ああ、茶道ってあるなぁ…

みるく

世界各国で、お茶は牛乳と共に飲まれている。砂糖と牛乳。塩と牛乳。バターを落す場所もある。だが、日本の茶にはその風習がない。 だが、明治から140年。牛乳も普通に日本の生活に溶けこんでいる。喫茶店では抹茶ラテなどが普通に売られ、抹茶とミルクの組…

萬寶全書

手元に萬寶全書という袖珍がある。袖珍ってのは細長い和書。和綴じのポケット版書物である。萬寶全書の奥書は元禄七年になっている。つまり1694年。茶書が続々出始めていた時代だが、こういうものを袖に忍ばせるぐらい、茶の湯文化は隆盛になっていた、とい…

禪人利休の生涯9

最後に利休切腹。 利休切腹の真因は今だ以って不可解である。 (略) 一、表理由…金毛閣寿像と道具高値売買 二、大徳寺法難…大徳寺取潰し阻止のため 三、商い手詰り…博多商人台頭による堺の凋落 四、政争敗退…秀長早死のため石田勢力急騰 五、茶道抗争…秀吉茶…

禪人利休の生涯8

著者は利休と秀吉の対立の遠因に、豊臣家の宗教政策を挙げている。 大徳寺と秀吉との葛藤は天正十五年頃からである。 (略) この頃大徳寺に並設して天正寺創建を思い付くが、導師がいない。そこで大徳寺中興の祖ともいうべき古渓をトレードする。 古渓は最初…

禪人利休の生涯7

天正十五年十月一日、於北野神社。 太閤秀吉は京都、堺、奈良に高札を立てて、 「来る十月朔日北野松原において茶湯を興行せしむべく候。貴賎によらず貧富にかかわらず、望みの面々来合せしめ一興を催すべし」 として美麗を禁じ、倹約を重じる布告を出しなが…

禪人利休の生涯6

天正十三年十月七日、晴天。 日本の茶道史上、空前絶後といわれる天皇への献茶会が、京都御所の小御所において催された。 (略) 殿下様(秀吉) 何レモ新ラシキ御道具 一、台子 木地ノ棚ニ伊勢天目 天目台 木地金ニタミス 一、御茶入 なつめに菊ノ文、蒔絵ニ〆…

禪人利休の生涯5

本能寺の変(天正十年六月二日)から信長大葬禮(天正十年十月十五日)までこの天下わけめの大変革期に利休居士はただ堺に蟄居していたのか。 (略) 筆者は利休居士が水面下で大いに活躍し、この歴史の大変革期に積極的に参加し、一定方向に指針を指し示すハタラ…

禪人利休の生涯4

信長との関わり。 この頃堺の会合衆の中心的役割を果たしていた能登屋、ベニ屋に代わって、今井宗久、津田宗及の新会合衆が台頭した。 (略) 千家は鉄砲・火薬の商いではなく、第一章で述べたように塩干物を扱う海産物問屋であったので、今井家や津田家のよう…

禪人利休の生涯3

利休が禪の道に入門したのは、一般的に伝承されている十九歳説より五年ほど早いのではないかと私は推理する。 利休の最愛の弟子山上宗二は、「茶の湯は禪宗より出たるに依つて、僧の行を専らにする也。珠光・紹鴎皆禪宗なり」として、彼の師匠利休の立脚点が…

禪人利休の生涯2

利休の生家に御茶があったか否か? この件に関する確定的な論文は見当たらないが、私は利休が生まれた堺の状況から考察して、町衆の御茶が利休の生家に於いて行われていたと推理する。 利休が生まれた時期に遡れる会記はないので、記録としてはない。 ただ珠…

禪人利休の生涯

武田大/正受庵/1993年。自費出版による利休の伝記だと思うのだが、巻頭がえらい豪華である。 禪人利休に寄せる 林屋晴三(略) 武田さんは長い間会社勤めをされつつ、数々の茶の湯体験をもっておられ、武田さんなりの利休像はおのずから出来ていったものにちが…

利休の茶花6

茶の湯は、台子を根本とすることであるが、 精神のいたる窮極のところは、草庵・小座敷の茶に比較されるものではないという。 また、書院台子は法式の基礎的なものであるが、茶の湯の精神からは、どこまでも出発点にすぎない。 利休は、それを段階として、価…

利休の茶花5

利休『朝顔の伝』は、彼の挿花に関しての説話の中で、もっとも有名なものである。 有名な朝顔の茶事から。 やはり記録から見ていこう。六月二日 朝 南宗寺ヘ茶持参 集雲庵ノ深三畳カリテ 一 雪中上堂 (略) 一 籠ニアサカホこれは南方録にみられるものである…

利休の茶花4

『易ハりんとうと菊ハ嫌候韋 古花不知との義なり 殊ニ紅葉仕タルハ尚以嫌トナリ』 (略) 利休の、花材についての「好き」「きらい」を、松屋はその記録の中でつたえている。 (略) りんどうとか、きくなどの花は、割に長期間にわたって、咲きつづけよう。 (略)…

利休の茶花3

神谷宗湛日記から。 亥正月十二日朝 一 利休 大坂ニテ御会 宗湛、宗伝両人 (略) 床ノ向ノ柱ニ、高麗筒ニ白梅入テ手水ノ間ニ取テ 、床、ハシタテノ大壺置テ (略) さて、問題の挿花は、初座にかぎられている。 後座には取りこんで、「橋立」の茶壺かざりに変え…

利休の茶花2

天文六年丁酉九月十三日 朝 千與四郎殿へ 久政一人 (略) 花器は、一書に「細口に花、鶴の一声」とあり、他書に「鶴の嘴に花」とみえる。 松屋会記の、俗に言う利休16歳の初茶事の話。 そもそも、写本の一つに山上宗二記の伝える利休所持花器「鶴の一声」が記…

利休の茶花

湯川制/東京堂出版/1970年。 時代は、絶え間なく、変わっている。 同じ言葉をつたえていても、その現われは、決して同じでない。 それが人間の歴史といったものであろう。 (略) 今の茶会の風俗など、紹鴎や利休の時代には、まったく予想もさない有りさまであ…

茶花

茶花は偏狭、という話を書いたが、特にそれを感じる花がある。薔薇である。薔薇はチベットから中国南部を原産とする…チャノキとほぼ同じ起源を持つ花である。 茶者南方之嘉木也 (略) 其樹如瓜蘆葉如梔子花如白薔薇實如棕櫚 かの茶経にも登場している。日本に…

茶花の本名3

二種類のクリスマス・ローズ。ヘレボルス・ニガーと、オリエンタリスのお話。 「でも、クリスマス・ローズや春咲きクリスマス・ローズじゃバタ臭くて、茶花の名前にはしにくいな」 「茶花というと何でも漢字にしたがるようですね。まぁ冬牡丹でも寒芍薬でも…

茶花の本名2

茶会記の中から茶花の抽出をしていると、時々これは何だろうと思われる花にぶつかることがあります。 そんな一つに「キンセンカ」があります。 キンセンカの名は、天文十八年(一五四九)二月十一日の「天王寺屋宗達会記」に「金仙花」として見るのが最初と思…