2017-04-01から1ヶ月間の記事一覧

5月の展覧会

当然ながら4月と大差なし。 ただ、GW終了とともに展示が変わる美術館もあるので要注意。 東京近郊 期間 タイトル 備考 出光美術館 -6/4 茶の湯のうつわ 畠山記念館 -6/18 茶の湯の名品 根津美術館 -5/14 燕子花図と夏秋渓流図 五島美術館 -5/7 歌仙と歌枕 泉…

十徳

江戸時代後期、茶の湯の衣裳の主流が十徳になった。それ以前の茶書ではうっかりすると裃とかつけてた。違いは何か?袴である。 十徳は着流しであり袴は履かない。袴を履くと式正寄りになるので、十徳は侘び茶によりふさわしい。でも、それだけなら、十徳が茶…

日本茶の湯文化史の新研究9

「烏鼠集」(略)は、元亀三年(一五七年)成立の四巻から成る。 茶道成立史上では初期のものであるが、管見では、茶人の衣裳について特に項目を設けて記述した茶書の最初である。 (略) 一 衣裳の模様、客は一段きれいに、主人は中程に裏衣ふのりうすくして、な…

日本茶の湯文化史の新研究8

信長と言えば こうして信長は、茶器の価値を高め、武将が下賜されることを切望するように仕向けた。茶の湯を権威・権力への臣従、および主君からの信頼の証と考えさせた。 茶の湯の政治的利用、いわゆる、世にいう「茶湯政道」のひとつの要素である。 「茶の…

日本茶の湯文化史の新研究7

寛永文化は「桃山の残照」といいう、華麗な文化を想像させる言葉で表現される。 歴史の現象をこうした文学的な言葉で表現するのは、歴史の見方を画一化するおそれがあり、充分留意する必要がある。 しかし、寛永文化が桃山文化の残像を持っていたことも頷け…

日本茶の湯文化史の新研究6

石州の将軍茶道師範の名が定着した最も強い要素は、「石州三百箇条」の制定によるものであろう。 (略) この書の成立が寛文五年(一六六五)の将軍への献茶より、むしろ柳営の茶を規定し、師範と称されたという定説の根本的な理由となっている。 というわけで石…

日本茶の湯文化史の新研究5

石州の話。石州が本当に徳川家綱の「茶道師範」だったか?と言う話。 この定説の根拠となっている将軍への献茶史料は「徳川実記」の「厳有院殿御実記」巻三十一(以下「実記」と略す)の寛文五年(一六六五)十一月の条の記載である。 (略) この日片桐石見守貞政…

木村茶道美術館 春風茶席

展示室1は青磁の道具。 展示室2は煎茶の掛物。木村茶道美術館にあるのは故木村寒香庵が蒐集した一級品。 どれも素晴らしい道具だと思います。しかしながら、こと青磁に関しては他の茶道具美術館が超超一級品を展示するので、比較するとしょぼく見えてしまう……

「茶の湯」と「茶の芸術」

トーハクの「茶の湯」展。1980年に同じトーハクで開催された「茶の芸術」と比べてみる。まず数から。 項目 茶の湯 茶の芸術 展示品数 259 399 国宝 20 30 うん。37年前の方がスケールはでかい。つーか1.5倍。でも展示はほとんどかわんない。喜左衛門井戸が来…

東京国立博物館 茶の湯

トーハクの茶の湯展の謎1。なんで平日行っても混んでるんですかね…。トーハクの茶の湯展の謎2。なんで展示室2は空いてるんですかね…。もしかするとだけど、展示室1を見終るとミュージアムショップがあって、そこ越えて展示室2なのに気付かず、帰っちゃう人っ…

日本茶の湯文化史の新研究4

んで庸軒の話。それも、茶風について。 まず「正保二年十月廿一日朝小堀遠州殿御茶被下候留書」(「茶道全集」巻五)から考察しよう。 この留書は庸軒が遠州の茶会に招かれた折の覚書である。 (略) この茶会に臨席した庸軒は三十二歳であったが、当時すでに遠…

日本茶の湯文化史の新研究3

宗旦の話。 少庵の子宗旦は、退潮著しい千家の復興を計るべく腐心したことは、「元伯宗旦文書」の多くの「有付」、すなわち息子達の就職に奔走する宗旦の姿から知られることになった。 そして、世にいう「乞食宗旦」の異称が広く喧伝されていたために、清貧…

神屋宗湛と毛利輝元

昨日の話について、さらに疑問が出たのでここに記す。神屋宗湛の曾祖父は岩見銀山を開いた人物で、毛利家とは縁が深い。 宗湛日記にも毛利家の人間との茶会は再三出てくる。 お得意先といってもいいだろう。慶長4年2月7日にも、宗湛は安芸宰相つまり毛利輝元…

日本茶の湯文化史の新研究2

織部の茶の湯について。 織部の茶を「ヒツミ、ヘウケモノ」好みと、その特色を一言でいうのが通説となっている。 それは、「宗湛日記」の慶長四年(一五九九)二月二十八日の条に、「一古田織部殿伏見ニテ、御会、(中略)一、ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候…

千家

千利休という名がある。 茶道史上ではあまりにも有名だけど、茶をやっていない人にも知られた名である。でも、宗易が公の場で利休と呼ばれていたか確たる証拠はないらしい。たしかに大体の史料では「宗易」だもんね。でも宗易には利休であってもらわないと、…

日本茶の湯文化史の新研究

矢部誠一郎/雄山閣/2006年。茶道系古本屋で良く並んでいる立派な研究書っぽい本。 “新研究”とはなんであろうか?「はじめに」より。 日本茶道史の研究に手を染めてから早四十年の歳月が流れた。 (略) 日本茶道史の中でも、他の人が手懸けていない分野の研究…

発掘!お宝ガレリア 信長・秀吉・家康が愛した茶道具は入れ物もスゴいんです!展

トーハク茶の湯展の宣伝番組…と思いきや、茶道具の箱特集と謂う不思議番組。有楽井戸の箱からスタート。 箱書きが保証書みたい、という話。 10万の茶碗が家元箱書で20万に化ける話もすればいいのに…。 次いで初花茶入の箱。 徳川さんまで登場し、自ら初花の…

数寄空間を求めて7

この火燵、いつの時代に始まるものか定かではない。 しかし、遅くとも室町時代には使われている。まずその例から見ることにしよう。 というわけで突然の火燵(こたつ)の話。 茶の湯と関係なさそうじゃねぇ?ところが。 『蔭涼軒日録』によると、延徳二年(一四…

数寄空間を求めて6

焼火(たきび)の話。 焼火では薪を焚く。 (略) 御湯殿上の焼火は、置囲炉裏で焚かれた。 『御湯殿上日記』文明十七年(一四八五)正月十日の条に「御たき火のおきゆるり、あたらしくこしらへて」とあり、「おきゆるり」すなわち置囲炉裏を作っている。 床を切っ…

数寄空間を求めて5

雪の話。 京の町に初雪が降った。天正十七年(一五八九)十一月十六日のことである。 内裏では、「雪消し」の贈物を楽しんでいる。けさ初雪ふりて、御ゆきけし、なかはしよりいつものことくこしらへてまいる。 ひしひしと、みなみな御ゆ殿御たき火にてまいる。…

数寄空間を求めて4

文明八年(一四七六)元旦。 三条西実隆は、前の晩から宿直していた寝殿を出た。 ということで元禄後水尾サロンを離れ、室町へ回帰。 実隆は紹鴎の連歌の師匠である。 夜は暗く、照明も発達していない。 にもかかわらず実隆たちは、その暗い夜を充分に楽しんだ…

数寄空間を求めて3

花見の続き。その後、土筆摘みというイベントと誹諧発句といろいろ楽しんだあと、「三畳敷の茶屋」に移動する。 承章はこう書いている。 御茶屋に於いて、新院の御振舞なり。御茶の前、御床に筒花入あり、おのおの廻花これあるなり。 花見に廻花か…。花見の…

数寄空間を求めて2

春である。春といえば花。そして花と言えばもちろん桜。 (略) 慶安三年(一六五〇)三月十日、後水尾院の仙洞御所で「御花見」があった。 金閣寺の僧、風林承章の日記『隔蓂記』をもとに、花見の様子を見ることにしよう。 この時代の風流は『隔蓂記』に大きく…

数寄空間を求めて

西和夫/学芸出版社/1983年。サブタイトルは「寛永サロンの建築と庭」。弱冠妄想混じりで寛永の建築ロマンを語る本である。序章は「後水尾院の八ツ橋」。 この橋は何のために作られたのだろう。幅三間弱、長さ七十間ほどの水路に、八つ架かっている。 ひとつ…

ストーリー

自分はお酒が好きである。自分の茶事になら、日本盛から出ている「惣花」にしよう。そう決めている。 地酒ブームの中では注目されない大手の酒だが、大変うまい。この酒のいいところは、宮内省御用達で宮内省の宴会では常に使われている、という噂のあるとこ…

夜桜2017

近所にちっちゃなちっちゃな穴場の公園がある。 桜が数本植えてあり、公園とその周囲の街灯が適切なライトアップになっている。今年は桜の季節に急に寒くなり、ちゃんと咲かないんじゃないか、あるいは桜が遅れるのではないかと思ったりもしたのだが、結果で…

会記から見る茶室と炉

三つの会記で茶室の間取りと炉のサイズがどう扱われていたか調べてみた。そこからの結論。茶室が広間の囲いから、六畳敷の茶室に転換されたのは永禄年間。それが二畳敷などの小間に発展したのは天正十年以前。炉に関してもりやはり永禄年間から一尺四寸炉へ…

宗湛日記と間取りとか

では時代の下がる宗湛日記ではどうか。 五日朝 一宗傳 御會事 座敷二疊半 冒頭からこうである。天正十四年には、茶室はさまざまでありそれを拝見するのも御馳走になっていたんだと思う。 一大和屋立左 御會事フカ三疊 四寸イロリ わざわざ(一尺)四寸の囲炉裏…

天王寺屋と間取り

ついでに天王寺屋他会記に「間取り」が出てくるのはいつだろうか?これまた宗達茶会記にはない。 宗及会記はどうか?天正七年に以下の記述がある。 天正七 卯正月七日朝 於坂本 惟任日向殿會 一 六帖疊敷ニ而、炉 かまなし、 火斗 一 床 八重櫻之大壺あミか…

天王寺屋と炉のサイズ

では、天王寺屋他会記はどうか?天王寺屋の他会記に「炉のサイズ」が出てくるのはいつだろうか?永禄9年までの宗達茶会記にはない。宗及会記はどうか?永禄十年 同十月一日朝 錢屋宗仲會 叱 及炉二尺、アラレカマ、釣テ ついで以下のもの。永禄十一年 同十月…