2017-02-01から1ヶ月間の記事一覧

3月の展覧会

3月春展示のはじまり。 でもまだ序盤も序盤。本番は4月からって感じです。 東京近郊 期間 タイトル 備考 三井記念美術館 -4/2 三井家のおひなさま 城山荘の想い出 出光美術館 -3/26 古唐津 畠山記念館 -3/12 新年の宴 トリ年を祝って 根津美術館 3/4-3/31 高…

庭園入門講座7 岩石・庭石・石組方法5

「石組の法」の章。 いよいよ具体的な石の組み方になるのかと思いきや: 昔は庭に石を入れて石を組み、石庭とするとき「石をすえる」とはいわなかった。 石を置く、重ねる、立てる、たたむといった。 (略) 飛石はさすがに平面であるので立てるとはいわず「打…

庭園入門講座7 岩石・庭石・石組方法4

(6)風化の話の次がこれである。 (7)品位「石は生きている」という、科学的にいえばそうしたことはあり得ないが、石に打ちこみ、石を愛し、石を心の友としているものの身になって見ればこの文字は決して無意味ではない。 造園ハウツー本とは、ノウハウが書か…

庭園入門講座7 岩石・庭石・石組方法3

本書の分量の半分が各地に産出する岩石の解説である。 が、省略する。この後、庭石の分類という項目に至る。(1)産地 (2)大きさ (3)硬度 (4)形状 (5)色沢ここもそんなに面白い話はないのでオミットちゃん。(6)風化に変な話が載っている。 (略) 右のような方法…

庭園入門講座7 岩石・庭石・石組方法2

昨日の続き。著者の石愛がすごい。 人というものは物心ついて初めは花をあいするものである、 もとはその国固有の花を、ついで物珍しく外来の花にと心をむける、 そのうち花から転じて樹木に目がうつる、 それも或る年代のうちだけ、最後に愛着を感ずるのは…

庭園入門講座7 岩石・庭石・石組方法

上原敬二/加島書店/1976年。同じシリーズの6,7巻の間に1年以上の間隔があるのはさすがに解せない。この本も緒言がちょっとイカれた感じ。 石は無生物であり、心もなければ生命もない。 これを植物にくらべれば同じ自然物でありながら、全く生きものの数に加…

庭園入門講座6 庭垣・袖垣・工作物類4

木橋について: 本編で述べる橋は木材、竹材、土を用いたものにかぎり、しかも庭のなかに架せられるものとする、石橋については後編石組の章において説明してある、それは構造が全く異なるからである。 これらの特徴は小規模なもの、荷重がかからないもの、…

庭園入門講座6 庭垣・袖垣・工作物類3

門について: 門そのものは庭の領域ではなく建築に属する、したがって庭師としては門の構造まで詳しく知る必要はないが、どのような形式のものが、その庭の状態と釣り合うか、どの位置に設けることが適当であるかといった点については一とおりの見解をもって…

庭園入門講座6 庭垣・袖垣・工作物類2

竹素材に関する蘊蓄。 竹について一言することがある。 千利休の時代にはもちろんモウソウ竹は日本内地には存在していなかった。 マダケの利用率については疑問がある。 当時用いられたのはヤダケであった。これは当時の武器であった矢につくるので重用され…

庭園入門講座6 庭垣・袖垣・工作物類

上原敬二/加島書店/1974年。庭作りの入門書。専門的過ぎて引用できる部分は少ないのだが、緒言が面白い。なにせタイトルが「垣は日本人の心のなかにある」だからな。 垣は単なる構造物、工作物であるにはちがいないが日本人である以上はそうした外形にだけと…

風流開眼

木下桂風/昭森社/1942年。木下桂風の風流に関するエッセイ集。豪勢ではないが布張ハードカバーで戦中の本としては紙質もいい立派な本である。41年に紙の配給問題でのらくろが連載停止したのを考えると不思議である。巻頭言はない。冒頭のエッセイ「風流心」…

素材

昨日書き忘れた。茶室の各所。中柱だ、床柱だ、床の框だ、天井だ…と、さまざまな木材が使われている。 これが大概高級木材である。中板だって銘木の一枚板が大前提だ。茶室を語るとき、これら材木の善し悪しが一緒に語られることが多く、もはや茶室の間取り…

茶室

最近茶室の勉強に凝っている。自分の経済力では中々手に入らないと知っているから、なおのこと理論武装するのだ。そんな中で思ったこと。 中門は悪い文明。無言の迎付とかがないと茶にならない気にさせる。 半ドアでぐいぐい入っていいルールなのに、そこだ…

茶匠と建築14

最後に不昧の話。 松江藩の家老職を勤めた有沢家の菅田村山荘が、今見るような姿に築かれたのは不昧の時で、有沢弌善の代であった。 不昧が初めてここを訪れたのは、寛政四年二月一八日であったことが、有沢家に伝わる小林如泥作の煙草盆の箱書によって知ら…

茶匠と建築13

石州の話。 石州の京都綾小路屋敷にあった茶室が図(八三)で示されている。 四畳敷であるが、長四畳ではなく、深三畳に客座一畳を加えた矩折りの珍しい間取りを示す。 (略) 古図で分り難いので起こしてみた。 客座が一畳入り込んだ形になっている所は、いかに…

茶匠と建築12

宗和の話。宗和の生涯自体は知っていたが: 慶長一八年に京都の誓願寺へ出世した安楽庵策伝は、(略) 彼は宗和の弟で、かつ茶弟子であるという伝え(茶人大系譜)もあるが、それは誤りで桂、関山両氏の研究によって、策伝は金森定近の子で長近の弟、すなわち宗…

茶匠と建築11

庸軒の話。 しかし宗旦以後も、千家の門はあまり賑わなかった。 ようやく、如心斎や一灯の時代になって繁栄期を迎えるのである。 千家の茶風の伸張は宗旦の子孫の力だけによるでのなく、 宗旦の弟子たち、とくに四天王と称される高弟たちの努力が大きかった…

茶匠と建築10

千家の中興。 宗旦以来の茶の古格を踏襲するだけでは、千家の茶を、世に広く浸透させてゆくことができないと、覚々斎は考えたのであろう。 (略) 利休が極限まで圧縮した茶室を、宗旦は侘茶にふさわしいものとしてとくに好んだ。 宗旦のあとの人たちは、そう…

茶匠と建築9

昨日の続き。 宗旦は正保三年卯月、譲状を認め、屋敷の北部一六間を隠居屋敷に定め、残りをそのまま江岑に譲ることにした。 (略) それから二年後の慶安元年五月二八日、宗旦の利休忌に招かれた鳳林和尚は 宗旦隠居之家初見之也 座敷一畳半也 と日記に書いて…

茶匠と建築8

昨日の続き。 少庵は慶長十九年九月三日、六九歳で没した。 宗旦はそれから四年程して、一畳半を造り、不審庵と称した。 それまでは、少庵の建てた深三畳台目が、千家の茶室として代表的な地位を占め、多分、不審庵と称されていただろうと思われる。 それを…

茶匠と建築7

宗旦、江岑、仙叟の話。 宗旦は「仕官を好ず 隠者ニ而罷在」て「一生竟風塵に走らず」といった風にあたかも隠逸の茶人であったかのように伝えられている。 (略) 幕藩体制の強化につれ、人々はいやおうなく、封建体制の機構に順応した生き方に従わなければい…

茶匠と建築6

遠州の話。 織部のあとをうけ、茶道界の指導的地位を占め、やはり柳営の茶道師範に迎えられた遠州は、武家の茶匠として、織部と同じ立場におかれていた。 (略) 茶の湯において遠州の取り組んだ課題は、封建社会への順応と茶の湯の理想を、どう調和させるかと…

茶匠と建築5

織田有楽の話。 茶に対する有楽の見解を、直接記した聞書のようなものは今のところ知られていない。しかし、有楽の流を汲んだ弟子たちの著わした書のなかに、有楽の考えをかなり伝えたものがある。 (略) そのなかで有楽は、それ茶の湯ハ客をもてなす道理を本…

茶匠と建築4

織部の話。 文禄五年三月八日、松屋久好は大鋸屋道賀と一緒に、伏見の織部邸の朝茶に招かれた。 久好の会記に、路地ヒロシ、石灯籠ニ火アリ、手水湯出ル、座敷三条大、南向き也、 (略) と見える。 これによって当時の織部邸には望覚庵と称する三畳台目の茶室…

茶匠と建築3

細川三斎の話。 『松屋日記』には、織部と三斎に対する評価が次のように述べられている。数寄と云ハ違而するが易のかゝりなり 此故ニ古織ハ能 細川三斎ハ少モちがわで結句それ程ニ名を得取り不給と云利休の茶風を忠実に実践するばかりで、新しい作意を殆ど示…

茶匠と建築2

さて、昨日の古風な先入観で茶室をみるとどうなるか。 山上宗二は、その伝書のなかで、関白秀吉の時世になって一〇年ほどの間に「上下とも三畳敷、二畳敷半」が流行しはじめたと書いていたし、当時の茶会記にも、そのような動向が、はっきり現われていた。 …

茶匠と建築

中村昌生/鹿島出版会/1971年。茶道建築界の…というより茶道界の長老みたくなっている中村昌生の、茶匠毎の建築に関する本。40年前の本であるから、茶の湯と茶匠に対するアプローチが、ある意味偏見で成り立っている。むしろそこが見どころか。冒頭「千利休」…

抹茶とセシウム

抹茶系のお菓子が市場に溢れたのは、原発事故以降である、というのが私の記憶。静岡のお茶が信頼を失ったのと同タイミングでお菓子類が抹茶まみれになった。たぶん、抹茶がだぶついて、値が下がり、お菓子会社が使いやすくなったんだろうね。んで、その状況…