2014-09-01から1ヶ月間の記事一覧
茶道筌蹄二「諸家茶匠」より。 藪内紹智 號剣仲絹熈堂 薮中斎 燕庵 始め尼崎に住ス 後京に来り公家薮中殿に身を寄せ後故ありて本願寺に仕ふ 寛永四丁卯五月七日卒ス年九十三 あれ?藪内紹智って、先祖の藪宗把が将軍の同朋じゃなかったっけ?尼崎ってどうい…
茶道筌蹄一より。 引手 玉子ハ利休形 (略) ムロ 利休形は二方天井まで塗廻し (略) 洞 利休形は臺目に小間中の洞也 (略) 壁床 利休形也席中の壁に掛物を掛けるを云 (略) 一重 利休形也 (略) 二重 利休形昔は吹抜きより上にて留る (略) 道幸 利休形後に開戸有 …
茶道筌蹄一「連子 突揚窓」より。 北向道陳の好共居士の好共云 をも屋の雪を見るために道陳突揚窓を好むともいへり 突揚の木はカヤブキに用ゆ長短共杉の角 外に件翁好の短キ木あり、 風雨の強き節用ゆ、 竹は長短共たゝき屋根に用ゆ目を前に逆様に用ゆ 突上…
茶道筌蹄一「勝手口」より。 ほたて口と火燈口は勝手口に限る 火燈口ヌリ廻は勝手口と通ヒ口と兼用するも有 堺塩穴寺利休好の二畳臺目有引違ハラ口付られぬ席故也 塩穴寺の二畳台目ということだから、後に南宗寺に移築された実相庵のことだろう。腹口(曲り茶…
茶道筌蹄一「小座敷」より。 四畳半以下を小座敷と云 四畳半以下は初後共座はきをなす 四畳半以上は道具畳ばかり座はきをなす 尤もはき込無 皆座はきするする時は騒敷故也 我々が「小間」と呼んでいるものを、本書では小座敷と言っている。 座掃の有無を「う…
茶道筌蹄一「茶会の節序」より。 利休居士の時代迄は二食なり 巳の刻限を昼飯と云 (日+甫)時を夕飯ト云 夫故昼の茶の湯と云ハ巳ノ刻時分を云 当時一日に三食なる故昼の茶ト云ハ牛時の事となりぬ 茶道早学は以下に引用している。http://d.hatena.ne.jp/plusm…
茶道筌蹄は如心斎の弟子、 黙々齋主人こと稲垣休叟の書いた茶道書である。このブログでも紹介したことがある「茶道早学」他の明治の茶道書の、かなりの部分がこの本を種本にしているようだ。おそらく、明治の初めの時点での市井の茶の湯、というのは表千家の…
杉浦勝一。旅館八勝館主人の書いた名古屋の茶料理と茶菓子…と思いきや、むしろ自身がもてなした茶人達の想い出集。 松永さんは或る時期から急にお茶をお始めになったお方で、そのお茶は浅いとか深いとか申される方がありますが、押えるべきところはピタリと…
大河内定夫。徳川美術館に収蔵されている財宝の中に「大坂箱」というものがあるらしい。 徳川方によって撤収されたこれらの戦利品の中に、現在「大坂箱」といわれる杜松の箱に保護された什宝が含まれていたであろうことは想像に難くない。 後光厳院宸筆とか…
木下稔著。 義直の茶道具の中心をなすものは、家康在世中に直接与えられた「御譲道具」と家康の薨去後、元和二年暮から同四年十一月にかけ駿府において尾州・紀州・水戸家の御三家に配分された家康の遺品駿府御分物である。 この時のリストが本書に乗せられ…
熊沢五六「尾州敬公と尾張府内庫茶器」より 徳川美術館の什宝のなかに黄金台子道具一揃があることは注目に値する。 ということで、徳川美術館の黄金台子道具の由来について。 徳川美術館の純金茶道具は、戦国の乱世を収拾して徳川三百年の基礎を固めた家康の…
有楽流の家元織田長繁が語る尾張藩の有楽流について。 非常に冷静な語り口である。 本来の目標を「尾張における有楽流」に求めたが、今回は「尾張藩における有楽流」に限定した。 (略) 有楽流の茶人達が活躍した場面を再現し、そこから考察を行いたかったが…
地方のローカル数寄者列伝、というのは貴重である。であるが。 千家流名古屋導入第一号の伊藤道幽は、伊藤家第四代祐政で、始祖は蘭丸祐広といい、織田信長に仕えた武人。 本能寺の変で戦死した森蘭丸とともに、信長お小姓・三蘭丸のひとり。 いや、茶人とし…
井口海仙「千玄々斎宗室」より。 玄々斎は幼名を栄五郎と称し、田安家の養となった。 田安家というのは、松平家の家臣の家がらで、同じ田安家が三軒あり、玄々斎の養家は田安太又という人が当主であった。 玄々斎は、その養家で、兄渡辺半蔵などと、裏千家の…
文政十一年尾州斎朝が倹約令を発して風俗を改革せしめた中に、茶事に関する一条がある。即ち、茶事之儀、近来各別致流行、小給之向、並若輩之者までも相嗜候趣に相聞候、右は銘々心得も可有之候得共、若輩壮年之輩は、文武修行之妨とも相成、且は費用之筋に…
吉田暁文の名古屋茶道史に、松尾流の流入が詳しく書かれている。 松尾流の来名かくの如き茶道の発展に拍車をかけたものは、これと同時即ち上述の町田秋波の歿後、千覚々斎の推挙に依って当地に出張教授をした松尾家代々である。 (略) 七代 好古斎宗五 明治廿…
尾張藩の茶道について: やがて尾州藩の茶道は有楽流に定着するのであるが、天保十一年斉壮は千宗室を招いた。このときの宗室は三河藩松平縫殿頭の三男に生まれ裏千家に入って十一世を継いだ玄々斎であったからである。 しかし程なく藩の茶道はふたたび有楽…
天文二年七月、京の山科言継は、織田家の老臣平手政秀の宅に立寄り、茶をよばれ、八時頃まで酒の振舞をうけていた。 そして日記のなかに「種々造作驚目候了 数寄之座敷一段也」と書いていたから、 政秀の宅にもすでにその頃、京の公家が感嘆するような「数寄…
熊沢五六他/河原書店/1972年。室町末期から(まぁ当然か)江戸時代、現代までの尾張のお茶についての本。イメージ的には信長であり、宗春であり、如春庵であるが、どうか?まず中村昌生「尾張の茶」より: 近隣の茶 (略) 今川義元の風流 義元はお歯黒で文化人…
なにわリンデンブックス/1997年。ハードカバー54ページという謎の本。 高山城と茶筌城の起源は具さでないが、源氏の系統をたどり、鷹山城主第十五代鷹山出羽守の弟『宗砌』は、奈良称名寺出身の珠光と連歌の宗祇を友とし、始めて茶筌を考案し、これをときの…
茶筅は使い捨ての道具である。 でも、まぁ現実にはそういう使い方は無理。 普段使いの茶筅は再利用することになってしまう。しかも最近、良質の茶筅を選んで使っているので、毎日使って半年たつのに未だに穂先がへたってない、みたいなことも起きている。 な…
他流の伝書を大体まるっと読んでの感想。 奥伝まで行った個人に対し、家元が四分冊の秘伝書を渡す、ということが行われていたのが興味深い。手書きの各冊子には伝授相手にいつ誰から伝授したかが署名されている。「山上宗二記」に口伝の部分があったり「南方…
最後に、奥伝で紹介されている他のお点前を、名前だけでも紹介。「逆勝手突切席向切夜會」突切席がよくわからない。 普通に短檠つきの向切のお点前のような。「四畳半逆勝手隠雪棚盆点の傳」これは引拙棚を使った盆点。「大丸盆乱飾炉の行の臺子点前の傳」 …
正式には「貴人御點前之傳並御附人之傳及び貴公より御茶給る時心得の傳」…長い。 客腰かけへ通りたらは(御附の人御下駄を直し戸を開きかたはらに相居る) 貴公出させられ前右に行(附人湯桶持行湯桶右に置き手水鉢の蓋をとり柄杓をとり御水をあげる) 貴公御手…
この流派の奥伝のネーミングセンス、きらいじゃないぜ! 臺子を飾り(及臺子常臺子外何棚にても随意たるへし) 天井に茶入(茶は沢山に入置掛はさる也) 仕込茶碗を臺子に乗せ飾る 地板は水指杓立前に蓋置を飾るなり(上下の飾り随意たるへし) セットアップ的には…
「台子」で「侘び」。疑問符しか湧いて来ないが、とりあえず見てみよう。 竹臺子下棚眞中に風炉釜を置 上棚右方眞中に四方盆に茶入乗せ(長緒なり)飾るなり(初坐床に一行物後席掛花生に花を活るもよし) 竹台子の下に風炉だけのせ、上に長緒の茶入を四方盆に載…
四畳半乱置点前とはなんだろう? 坐掃終て水指持ち欠畳釜の鐶付の通りより少し向の方に置 茶入茶碗持出点前に並べ置(古風流し点の格に置くもよし) 水指を欠畳に置く、つまり流し点である。 実際「流し点」という語も出て来るわけだし。ということは乱置点前…
偉い人からもらったものの飾り方。 お点前の内容は省き、最初の飾り方を列挙するぜ。 茶入拝領は常臺子休臺子何にても上棚眞中に帛をしき初坐より飾る 拝領の茶入は、そりゃ台子で扱ってしかも中央に飾るものだろう。 初座からってのもらしい話である。 濃茶…
この後台天目とか貴人点とかいろいろあるが、個別のお点前の流れみても「流儀の違いだねえ」となるだけなので、スルッとパスし、いよいよ奥伝に入る。奥伝の最初は「眞の壷飾の傳」。 これもその手順はスルー。 捨壷といふ事あり 名物の壷にて底に書附などあ…
タイトルの「小地方とはなんだ?」と思って読んだ。 水指前眞中に茶入れを飾る(四畳半棚なき飾なり 棚ある時は棚上に飾てもよし) 小地方に仕込茶碗を乗せ両手にて持出壁付仮置して茶入を定の所に直し茶碗をとり茶入をならへ置 小地方を水指の左壁付の方に仮…