2016-02-01から1ヶ月間の記事一覧

3月の展覧会

少しずつ春展示の形が見えて来たところ。 …藤田はこの春空いてそう。 東京近郊 期間 タイトル 備考 畠山記念館 -3/13 春に想う 梅椿桜桃 根津美術館 -3/31 ほとけの教え、とこしえに 春情の茶の湯 静嘉堂文庫美術館 -3/21 茶の湯の美、煎茶の美 岡田美術館 -…

茶道文化論集30 宗湛と利休

秀吉に謁見するという主目的をはたした宗湛は、いよいよ数寄者の訪問と名物拝見に精を出した (略) 秀長の茶会が終わったおりふし、利休から明朝茶会にお招きしたいと案内が到来した。 宗湛は急遽堺に戻り、そいて夜半を大坂に向かった。 これが利休が公私多…

茶道文化論集29 神屋宗湛

同十四年、秀吉は九州討伐の準備にかかった。 (略) 実は、関白殿下となった秀吉は、早くも大陸遠征の野望を抱いたのである。 それには、前進基地として博多が重要となる。 秀吉は博多進駐を目ざした。 (略) この準備の一つとして、しかも戦略の要須として博…

茶道文化論集28 会記

奈良の松屋源三郎三代の茶湯日記が『松屋会記』だが、『天王寺屋会記』は堺の天王寺屋津田氏三代の茶湯日記である。 ともに、茶の湯の成立した天文時代にはじまり、茶会記の草分け的なものだし、三代にわたって書き継がれたという点が似ている。 というわけ…

茶道文化論集27 松屋久政の堺衆訪問

『松屋会記』の天文十一年(一五四二)の条には、源三郎久政が堺衆から接待される茶会記だけが記載される。 その頭初が武野紹鴎の茶会である。 (略) 四月三日に久政ら三人の奈良衆が紹鴎の茶会に参じたのである。 次いで久政らは四日に天王寺屋宗達、五日に満…

茶道文化論集26 茶会記のはじまり

現存する茶会記のうちで、最も古い年代を示すのが『松屋会記である』。 原本は失せて、写本のみが伝わっているが、天文二年(一五三三)三月、奈良転害郷の松屋初代の塗師屋(漆屋)源三郎が招かれた東大寺四聖坊の茶会にはじまる。 初期茶会記の一冊として、松…

趣味どきっ 茶の湯表千家はじめて楽しむ茶の湯4

薄茶濃茶(with 茶カブキ)を終え、何するんだろうかと思ったら床の間か。まず即中斎の書いた一行書の紹介から。それはまあいい。でも、床の間の掛け物の種類紹介「墨蹟」の例題がその即中斎の一行書。 いや、家元の書いた一行書を「墨蹟」とはいわんでしょ? …

茶道文化論集25 権威

利休は織田信長に召された際、その茶の湯の「伝ハ紹鴎ニ得申、道ハ珠光ニ得申」と応えたと言われる(随流斎延紙ノ書)。 利休は、その茶の権威を伝統に求め、その創意くふうも珠光に発するところとしていたのである。 元禄の世の子孫の発言だけに、これは信用…

茶道文化論集24 点前の源流

なお当代、茶は寺院法会のさいなど、役僧が渇を癒すために準備される例だった。 (略) この点茶風景は一三五一年製作と伝えられる『慕帰絵』、あるいは『福富草子』などで知られる。 (略) ということで東山以前の、寺でのお茶の話。 貴族寺院の有職書の『海人…

茶道文化論集23 点前と手前

点前を「てまえ」と読むのはむずかしい。 もとは「手前」と書いたのだが、近代になって、この文字が普及した。 手前という文字は俗っぽいし、意味も多様だから、これを雅字に訂正したのである。 ということで、手前、という字の話。 井伊直弼(一八一五〜六〇…

趣味どきっ 茶の湯表千家はじめて楽しむ茶の湯3

「はじめての濃茶」というか、番組冒頭でいきなり女子アナが濃茶を飲むとは。 これでは「はじめから濃茶」である。んで、実際の飲み方例。「濃茶は厳粛な空気の中、いただきます」のナレーションの中、客三人の座敷が映る。 違和感。ああ、亭主も客も、全員…

茶道文化論集22 天文時代の茶湯

座敷飾りは東山時代に発達した将軍殿中飾りにならった。 六畳・四畳半の座敷ではその簡約化がくふうされた。 そこに侘び茶の芽ばえがある。 台子に対して板や棚、天目に対して茶碗の使用が始まった。 ということで、利休以前の「茶湯」。著者は東山→町人のお…

茶道文化論集21 古市氏と淋間茶湯

古市播磨といえば、茶湯界では少しく名がある。 東山時代、茶湯開山の珠光のワキ役として登場する。 珠光の弟子としてうたわれるのだが、むしろ珠光のパトロンというべき関係にあった。 そういえば古市播磨詳しくは知んないな…。 古市播磨が珠光の弟子といわ…

茶道文化論集20 闘茶

茶会は茶の集会、寄合(よりあい)である。 一六世紀に茶数寄の座敷茶湯が発生するまでは、茶会といえば闘茶の会だった。 (略) 足利尊氏は将軍になると、その施政方針を武家衆に徹底させるため『建武式目』を発布した。その中で連歌会や茶寄合をいましめている…

茶道文化論集19 大和の古工芸

奈良を中心とした大和の古工芸発達の跡を史学徒の立場から眺めて見よう。 ということでなぜか奈良の工芸品。 一 奈良墨奈良で工芸品といえば、先ず墨に指に屈するであろう。 この墨は大陸から伝来し、寺院などでは必要に迫られて自家製作を行ったものであろ…

茶道文化論集18 北野大茶会と奈良衆

北野大茶会は太閤秀吉が天正十五年(一五八七)十月に北野神社境内において、全国の茶人および道具を会した一世の大茶湯であった。 この茶会には、大和大納言豊臣秀家が総奉行として臨んだので、その領民である奈良衆は肩身も広く、僧俗合わせて三六人が喜びい…

茶道文化論集17 三都市の一体化

ここで三都市というのは、京都と奈良、それに和泉の堺のことである。 ということで畿内の主要三都市のお話。大坂はまだ石山寺でしかなかった頃のお話ね。 とはいえ、なお京都が中心であったといいたい。 これは首都たる伝統の然らしめるところである。 (略) …

茶道文化論集16 北野大茶湯

北野大茶湯は秀吉の事蹟のうちでも特筆されるべきものだった。 したがって、秀吉の伝記を語る『太閤記』の類には、精粗の別はあるが、これの記事がある。 (略) 松屋久重は、久政・久好父子が北野大茶湯に奈良衆三六人のリーダー格として参会したことを誇りと…

茶道文化論集15 大徳寺と堺衆

古岳和尚は堺を愛した。 舳松などの松原に、洛中より以上に“市中の隠居”の風情を掬したことかもしれない。 ということで、大徳寺と堺衆の関係について。 大林和尚は紹鴎や天王寺屋一族に仰がれる。 今井宗久や千宗易(利休)も参叩する。 (略) 町人らは、その…

茶道文化論集14 宗珠

大永六年(一五二六)秋のことだが、連歌師宗長はその手記に、 下京茶湯とて、此比、数奇などいひて、四畳半敷・六畳敷、をの/\興行、宗珠さし入門に大なる松有、杉あり、垣のうち清く、蔦落葉五葉六葉、色濃きを見て、 今朝や夜の嵐をひろふはつ紅葉 と記し…

趣味どきっ 茶の湯表千家はじめて楽しむ茶の湯2

今回は「はじめての薄茶」。といっても飲む方である。女子アナの洋服正座のおなかぽっこりちゃんが気になる。 必要な道具は扇子、懐紙、服紗。菓子切りがないのは薄茶で干菓子だからか。 あと客は別に服紗いらんだろ? 阿蘭陀水指に赤楽で薄茶。春めいている…

先週のアド街ック天国で、骨董屋でドイツ人教授が茶の湯の棚を購入するシーンが映った。コンソールテーブルとして使い、ワインの瓶とか置くらしい。骨董屋さんも止めてやれよ。 茶の湯の棚は、大概組立式で、せいぜい一キログラムもしない茶入とか天目茶碗が…

茶道文化論集13 珠光と一休

なお、珠光は一休和尚から印可の証として圜(円)悟禅師の墨蹟を授与されたという説も行われる。 つまり、茶湯は東山殿義政の東山山荘において、町衆の珠光が禅味と茶味とを塩梅して発祥せしめたもの、その禅味は一休和尚から授かったと理解される。 (略) しか…

茶道文化論集12 四聖坊

松屋会記にもたびたび出てくる四聖坊。 本書は四聖坊をくわしく解説してくれる。 東大寺四聖坊は、東大寺の寺中(禅宗では塔頭)であった。 東大寺では、門跡・院家に次ぐ寺格を与えられ、近世には坊領二百二石を宛てられた華厳宗学侶方の筆頭の寺坊である。 …

茶道文化論集11 戦国大名と名器欲

大名のアクセサリーは、貴族を示す五位の朝臣の位階である。国守の格である。 将軍家が公家に執申して薄墨紙の口宣案(官位記)を授かる。 五位相当の官職に任ぜられ、これを称号とすることになる。 これは戦国時代だが、大きな威力となった。 ということで、…

茶道文化論集10 名物狩り

永禄十一年(一五六八)、信長は入京と同時に、畿内の町々に屋銭(矢銭)を課した。 (略) 堺には二万貫が課せられたが、堺町人はこれを拒否した。 (略) たびかさなる堺の反抗に憤激し、堺攻略を命令した。 (略) かくて 二月初め、堺は降伏するのである。 そうい…

趣味どきっ 茶の湯表千家はじめて楽しむ茶の湯

炉縁にデカデカと花押がこっちむいてるオープニングで始まる。俗い俗い。んで家元登場。士郎正宗でこういう人出てたら確実に俗物…みたいな感じ(鵬雲斎ほどじゃないけど)。滑舌悪くオーバービュー。え?初心者番組なのに茶カブキやるん?続いて若宗匠出現。レ…

茶道文化論集9 戦国大名と堺

本書の「戦国大名と堺」が、堺の興亡について判り易い。 天文元年(一五三二)、細川晴元はその寵権臣の三好元長を誅罰するため、縁者の本願寺証如上人に請い、その一向一揆の武力をかりて元長を堺の顕本寺に追い込んで自刃せしめた。この一向一揆の蜂起に見習…

茶道文化論集8 腹さすり布袋

腹摩布袋の絵は、南宋の画家牧渓の筆で、同じく禅僧の簡翁居敬の賛がある。 足利将軍家におさまった舶来品で、東山名物となったものである。 というわけで腹さすり布袋の来歴に関して。 ところで、牧渓や簡翁和尚の落款印のほかに、図に「王のいん」とあるの…