2013-01-01から1ヶ月間の記事一覧
多くの美術館は春秋展示で、冬展示がある美術館も大抵12月で会期を終え、1月か ら仕切り直します。したがって1月と2月というのはさほど変わらないわけです。 でもまぁ、この中でなら、強いていえば根津と頴川かなぁ。 頴川は茶道具持っている割には、展示す…
花柳街で、お客がなくて、お座敷へ行かない芸娼妓を「お茶を挽く」という。 (中略) 当時の祇園は、明治天皇の東京遷都で、俄然衰頽して、火が消えたようにさびれたので、その挽回策として「都おどり」が、明治五年に、初めて催されたのである。 しかし祇園は…
六種類の花月式を、連續して行うので、裏千家十三代円能齋宗室が、明治四十三年十一月、東京に於て撰定して行うたのが最初で、左の様な記録が残っている。 六歌仙花月式 人のこころの花にそありける 花付 ふくからに 薄茶 かかみ山いさ立よりて見てゆかん 炭…
井戸の上にある固定滑車「クルマキ」について。 田村宗園という父の時代の業躰から聞いたことだが、茶事で亭主が迎え付に出る時、自ら水を汲んで、蹲踞の水をかえるのだが、その水を汲むのに心得があって、クルマキの音を、カラカラと高く立てて汲む。すると…
あるお宅の正午茶事に招れた時のことである。 八寸も主客の盃ごともすんで、香りのたかい澤庵で湯漬をいただいていると、お詰をつとめていた某老人が「井口さん、漬物のことを香の物というわけを御存じですか?」と云った。 常日頃、あまり氣にもしていなか…
茶道を学んでまだ日の淺い人が大徳寺和尚筆の「放下着」の三字が書かれた横物の軸を所持していたが、讀み方もわからないし、又、何時ごろ床に掛けてよいかもわからないので、お茶の先生に聞いてみた。 その先生は「放下着」とそのまま續けて讀むから意味がわ…
朝鮮から渡ってきた茶碗の中に「御所丸」と稱するものがある。 (中略) その中でも、大阪鴻池家に伝わったものには面白い由來が有る。 秀吉が朝鮮へ茶碗を注文した時、道具奉行をしていた古田織部が、種々奔走したので、その恩賞として、燒き上がった茶碗の中…
井口海仙/淡交新社/1959年。エッセイ集から面白い所を。「立禮考」より: 東京へ遷都されてから、京都の町は、火が消えたようにさびれた。 それに加えて、時の京都府尹長谷信篤が、欧米の風潮にならって、お茶屋は勿論、芸妓、娼妓の営業を、抜き打ち的に停…
https://itunes.apple.com/jp/app/i-cha-dao/id479462535?mt=8 ・史上初!「茶道のお稽古iPhone/iPadアプリ」 ・ゲームで遊んでいるだけで、本物の抹茶の点て方をマスターできます。 ・茶道家・堀内ギシオ氏が、アプリの制作プロセスを全面的に監修。だから、…
終章は、各章で述べていた結論を順に列挙しただけのものなので、内容は省く。 淡交に連載したものらしいので、最終話にそういう整理が必要だったのだろう。 私なりに本書を総括する。 本書は日記や茶会記など、ちゃんとした資料をもとに江戸時代の茶を総括し…
第4節では玄々斎の活動を描く。 江戸で尾張大納言こと徳川斉荘に茶道を伝授し、種々拝領物があったうえ、二百石取りの身分になったとみえる。 この時期に扶持にありつけるのが凄い。玄々斎の実兄が尾張徳川家家老というのが効いているのだろうな。 そして千…
第3節では、黄梅院大綱宗彦の各種活動について日記から抽出した後、以下の様に語る。 大綱による右のような活動は、一体どのような茶道観に裏付けられていたのであろうか。 残念ながら、大綱自身の日記からは詳しいことはわからない。 ただ参考とすべきは、…
第2節では、井伊直弼と伊木三猿斎を事例に、幕末期の武家茶道のありかたを検証する。井伊直弼は、30代初頭まで埋木舎で不遇に過ごすわけだが また埋木舎時代の直弼は、茶の湯に対する基本的な思惟をすでに形成していたとも考えられる。すなわち逸話を諸書に…
第四章「幕末の茶道」。 第1節では「豪商の茶」を扱う。ここでは金沢の豪商 銭屋五兵衛の茶道具購入を、その日記『年々留』から検証している。 この『年々留』に、茶道具に関する記載がはじめてあらわれるのは、文政十一年(一八二八)三月、五兵衛五十六歳の…
途中に禁中・公家茶の展開として、槐記の合理性について語る第2節があるのだがオミット。第3節は一燈と如心斎の七事式の話が中心。 ただ注意しておかねばならないのは、この七事式の創案に際しては、かなりの抵抗がみられたことである。 『不白筆記』によれ…
第3章「茶道の再編」では18世紀のお茶。 第1節は「武家茶道の展開」について。 そのような茶道役達ではあったけれども、江戸時代の中葉を迎えると大きな変化をみせるようになる。 それまで活躍してきた織部、遠州、石州ら茶道師範とよばれる人物達の役割が終…
遠州の後、武家に爆発的に広まったのは石州流。 会記から石州の茶を検討するが: 小座敷の道具組みはさほど目立ったものではない。 ここだけで終止すれば、わび茶の範疇で語られるものであろうが、なお書院にうつって 茶事が続けられている。 書院では右のよ…
宗旦は、自分の息子達を大名に仕官させる事に腐心していた。加賀前田家の仙叟に関する記述。 さらには加賀藩における仙叟の活動としては (中略) 茶室、茶庭の設計、茶道具の管理、茶事に関する職務を司っていたのである。 私が一番疑問を持っている、 http:/…
第2章「茶道の展開」では、江戸中期までの茶の湯を扱う。 第1節では、禁中・公家の茶がどう展開したかを、茶会記で追っている。対象は後水尾天皇の弟、常修院。 後水尾天皇の子で、上皇となった後西院。 やはり後水尾天皇の子の三菩提院こと一乗院真敬法王。…
江岑夏書にある利休弟子七人衆について、昔疑問を書いたことがある。http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20120207 なぜ利休の弟子が大名ばかりなのか? なぜ嫌いな織部を含めるのか? この辺謎だったんだけど、近世茶道史を読んで、ちょっと頭の整理ができた…
道安と宗旦の千家再興について。まず道安の動静。 その後利休の切腹に関連して、一時京都・堺を離れていたが、赦免と千家の復興に伴って、再び秀吉に参仕することになったらしい。 秀吉の勘気が解けたのは1594年頃か。そして秀吉の死ぬ1598年までの4年くらい…
江戸初期の茶会記にある禁中・公家の茶は、総括するとこんな感じ: これらの例からも知られるように、ここでも格別の道具が使用されているわけではないが、やはり後段、大酒というスタイルがとられている。 このような傾向は他の人物の場合であっても大きな…
織部の死後、江戸初期の茶の湯をリードしたのは遠州。 遠州は主に京都に在住していて、全国に茶を指導していたわけではないのに、どうしてリードした事になっているのか不思議だったが、むしろ中興名物などの道具に与えた影響が評価されたものの様だ。特に、…
江戸初期の茶の湯状況を著者はこう総括する。 この時期、第一の茶の湯の世界における特徴的なありさまは、武家相応の茶の創出と、これにともなう諸大名への普及であろう。 (中略) 第二にこの時期、利休の茶の影響を受けた多くの人物がいまだ活動をおこなって…
谷端昭夫/淡交社/1988年。江戸時代の茶の湯の実態を研究した研究書。著者は言う。 これまでの近世における茶の湯の研究で、最も進んでいるのは、主として大名達による茶の湯のあり方の解明と、わび茶を奉ずる茶家の宗匠達の研究であろう。 (中略) つまり、利…
申翰均/バジリコ/2008年。以前burieさんから頂いた本。内容自体は出版前からある程度知っていた。 http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20071021中国人から見た茶の湯の本の次には、韓国人から見た茶の湯の本を…とか思ったんだが。「中国と茶碗と日本と」がそ…
炭を熾し、風炉に並べる。 練習だから、適当に切った半端炭だ。道具のほこりを払い、洗う。寸胴に湯を沸かす。 このでかい寸胴の湯が小ぶりな釜に全部入ってしまうのはいつ見ても不思議。 道具を並べ、濃茶を練る。 …点前をかなり忘れている。思えば濃茶は一…
樂吉左衛門密着取材。樂さんの作業風景がいろいろ見れて面白かった。 箆削りの風景とか見れるとは思わなかったし、作業場に失敗した茶碗を置いて、こうはすまい、としているのも面白い。前衛的な茶碗を作る時は、同時に伝統的な茶碗も作る、というのも驚きだ…
トーハクに、耳庵の茶道具を観に行く。 古銅象耳花入 秋月。パオーンって感じに象がついているが、15世紀の中国に、こんなに象の写実を可能とする象への知見があったんだろうか?唐物文琳茶入「宇治」。いろんな替え蓋があるらしいのだが、せっかくだから展…
1月の骨董ジャンボリー。…日程が酷過ぎる。1/8(火)はアーリーバイヤーズデイで、本番は1/9(水)、1/10(木)。 全部平日じゃねーかよ。 骨董ジャンボリーにとって、客ってのはこういう平日に遊びに行ける人の事であって、しがない給与生活者は客と思ってないん…