2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧
茶室は狭い室で,炉に火を入れ,湯を沸かすので,大体は寒い冬のものである. しかし暑い夏にも使われるので,それには暑さを防ぐ工夫もしてある. ここからはビルを離れ、一般茶室の夏の過ごし方の話。まずは醍醐寺三宝院の松月亭を紹介。 流れの上に半分乗…
ビル内茶室の作り方ノウハウ。 ビルの打ちに作る茶室は普通の建て方で,組み立てればよい. 雨の心配がないから屋根や庇も形だけのものである. ただ壁塗のとき換気をよくしないと湿気がこもって折角乾燥材を使っても,ふくれて後に裂れくることがあるのと (…
鶴屋八幡のビル内茶室の話が出たので余談。聖路加タワー脇にある塩瀬総本家本店。 ここの一階売場奥には又庵写しの茶室、「浄心庵」が建てられている。http://www.shiose.co.jp/shop_info.html ビル内に数寄屋が建っているので、はじめて見るとびっくりする…
銘菓子舗鶴屋八幡の茶室は、前二者よりも広い面積180m2に8帖の広間、3帖の小間、4帖半の席、待合、水屋、露地などを、いっぱいに配置してあり、毎日使用されているので、この種の代表的なものとして取り上げた。 間取りは以下の通り。福助足袋の茶室ほどは考…
官休庵木津宗詮宗匠の好みの3帖台目の茶席と8帖の広間、3帖の次のま、 台目3帖の水屋を組み合わせてあるが、庭は極端に狭くなったので植木を入れる余地がなく、全部を瓦敷とし、 (略) 瓦敷と畳敷の高さの差が37あるので椅子をもってくると、畳がテーブルの代…
岡田孝男/学芸出版社/1978年。建てる側から見た茶室の話。建築技術選書の1巻。シリーズの第一巻が茶室、というのは、どれだけ茶室が建築家にとって面倒なことかを表わしている…のか?第一章は「ビル内の茶室」。まず紹介されているのは「福助足袋大阪支店ビ…
茶杓の銘で「五月晴れ」と言ったら六月だからってことでやりなおしになった。でも「茅の輪」はOKだった。 五月雨は旧暦五月の雨で、ちょうど今時分の雨で、梅雨のこと。 五月晴れは梅雨の合間の晴れ間である。 茅の輪は、旧暦六月末の夏越しの祓えの道具で、…
90年の番組の再放送。 熊倉功夫。ゲスト中村利則。内容は割と凡庸だったが、二人の若さが印象的…25年前だから当然か。 紹介した茶室は利休から遠州頃までの茶室。待庵みたいな小間から、鎖の間の存在まで…の話である。 んで思ったのだが、「茶室」で総括され…
光悦七種にはなぜか二種類在る。ひとつは A:不二山、雪峰、障子、鉄壁、毘沙門堂、雪片、七里もうひとつは B:加賀光悦、雨雲、時雨、紙屋、鉄壁、有明、喰違である。なぜか鉄壁だけ共通。 でもなぜ二種類あるんだろうか? それぞれの茶碗の来歴を調べてみ…
市川壽美蔵丈はこの時期の市川壽美蔵=市川壽海の事だろうか?「市川壽美蔵丈」で検索すると、売り立て目録ばかり出て来るので、なかなかの茶人だったのではないかと思うが、市川壽海=市川壽美蔵丈という情報は出て来ない。 非常にコンパクトにまとまってい…
砂川小太郎が誰かはよくわからない。戦前の実業家だと思うのだが。 民芸風の茶室が面白い。が、この茶室、別棟でなく砂川邸の一部である。こんな風に作り付けてしまうとテイストを変えるには家を建てなおさなければならないのだが…。そういう手間や金を惜し…
麹町上二番町、現在の一番町20番地にあった半泥子の東京別宅。 実際には息子さんに建ててあげたもので自宅ではないのだが、半泥子の東京での拠点でもあったという。なので「極侘びの茶室」ではなく、住居の応接間兼用広間…みたいな控えめさがそれらしい。で…
吉田邸…としか書いてないのだが、低い屋根の様式から、吉田茂邸ではないかと思われる。 こちらはまさかの21世紀になってからの焼失であるが、旧吉田邸の焼失箇所に関しては再建を目指す大磯町も多くを語っておらず、茶室が焼けたかどうかも含め、よくわから…
高橋箒庵の赤坂一ツ木町の邸宅「伽藍堂」。その茶室一木庵。一木、という地名にちなんだだけあって、興福寺の古材を使った堂々たる…というか堂々すぎる床柱が目を惹く。…まぁ床柱以外は割と凡庸なお稽古茶室みたいな気がしないでもないが。 この茶室もどうな…
根津美術館はもちろん旧根津邸にあり、そこにはいくつかの茶室が建っていた。その一つが弘仁堂である。 根津邸は戦火に焼け、茶室も失われた。現在根津邸にある茶室は他から移築されたものだそうである。 戦前の弘仁堂は藁葺の民家仕立てであり、大日如来を…
明治の初期の大茶人、松浦「心月庵」詮の茶室、心月庵。江戸屋敷のあった浅草に、蓬莱園という別邸があったので、そこに作った筈。http://taitonavi.jp/enjoy_detail.html?no=214上記ホームページでは「関東大震災で荒廃した」になっているが、昭和15年の本…
益田鈍翁が小田原に作った閑雲亭(とその他いろんな茶室)。 閑雲亭でググっても、鎮信流の茶室しか出てこない。 鈍翁の死後コレクションは散逸したが、茶室はどうなのだろう?どこかに移築されたのだろうか? それとも廃棄されたのだろうか?小田原市が持って…
名古屋市公園内にあり、古田織部の作にして現存する遺構として最も古いものである。 この茶室は戦争で焼失し、昭和24年に再建された。戦前↓ ↓復活後 http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/01_goriyou/01_03_tyaseki/01_03_02_sarumen/index.html 屋根が全然違…
鈴木荘太郎/建築世界社/1940年。続けて別の茶室本。これも戦前の茶室と、それに加えて数寄屋建築に関する本。「京都美術大観 茶室」と違い、京都限定ではない。 また歴史的茶室限定でもない。結構写真が美麗。ところで、この本には昭和15年ごろの時雨亭が載…
この亭は四疊半と三疊とを有し、入口を土間としてその一部に袋戸違棚を設け臺目風な疊を入れてある。 (中略) 三疊の北側には水面一尺九寸、九尺二寸に五尺三寸五分の出張縁を附し、釣と眺めによく出來てゐる。 又こ東の側にも小縁を附し、こゝが舟着に成つて…
変遷 (中略)その後安永の初め火災に會ひ再興したが又續いて天明の大火に會ひて再興、後嘉永の御所燒に三度祝融子に見舞はれ、更に明治十四年丹波國にあつた官休庵の古き席を将來つて再興したが遂に之れは腐朽した為、大正十五年、屋根を除く他はほとんど原型…
特徴最も異なってゐる所は、茶道口であつて、白の太鼓張高さ五尺七分二尺五分のものを蝶番で柱に附け、自然に之を放置する時は必ず閉ぢる仕掛けになつてゐる。 開けておけば何か重いものを下に置いて閉らうとする運動を静止さしておかねばならない。 今試に…
今日庵の解説が面白かったので。 老年に及んだ茶人は皆多く其心境と老體との關係から、二疊敷を好むやうになる。 動作の點に於て最も便であり、話をするにも大聲を要せず、客を遇するにも立居するに億劫さがないから思ふ存分待遇する事も出來る。 此等の點は…
本寺は大愚和尚を開基としたる妙心寺派に属し、齒形の地蔵の名で有名な寺である。 (略) 普通の座敷八疊敷で、其東の方壁際一間をとり、床の樣にして右の方に高さ五寸四分上板一寸三分に巾三尺八寸六分の端角は杉丸太の束が附く、 その板の右よりの方へ丸爐を…
八窓なので遠州好み扱いの松琴亭であるが、本書ではけちょんけちょん。 屋根の構造、用材の時代化、間取の取方、手法の細部等を考察するに、遠州時代のものとは思はれず、又遠州の特色少しも現はれず、全く千家流儀に近き手法にて、 (略) 六窓又八窓と云ふ事…
處が明治初年東京に博物館が出來た當時、時の館長町田久成氏は茶席の必要を認め、蜷川式胤翁に命じ京畿の間に於いて由緒ある茶席を購入して東京に廻送せしめん事を囑した。 式胤翁即ち妙喜庵こそ尤も適當なりとして妙喜庵に到つた。 所が寺は無住で誰一人住…
然るに其後明治になり、神佛分離の時、泉坊も八幡に存置する能はず、移轉するか廢棄するかといふ事になつたが、終に明治廿四年之れを他の泉坊の建物と共に、山の下なる西村氏邸へ移轉したのである。 其間長年放置されてゐた為、扉なども盗まれたやうであるが…
時雨亭は今は非常に腐食してはゐるが、後變更も比較的少なく保存されてゐる。 少し早く修補せなければ今や方に倒れんとしつゝある。 昭和8年に「やべぇ壊れそう」と思われていた時雨亭。調べてみると昭和51年に修理した模様である。 「やべぇ」と思われてか…
現存しないわけではないが この席は浮田秀家の娘が、久我大納言に入嫁された時、愛好のこの席を平野神社近くの大納言別邸に移したものと云はれ、 宇喜多秀家と豪姫の間の娘の一人は伏見宮貞清親王に嫁いでいるが…。この久我大納言って誰だろう?伏見宮貞清親…
寛永年間、金森宗和により作られた四畳代目席。西鴨川上、と書いてあるが、付属の地図を見る限り、現在の西賀茂川上町というより、西賀茂下庄田町あたりの様に読める。どちらにせよ、現在この茶席がどうなっているか判らない。 現存していて個人所有の為公開…