2013-03-01から1ヶ月間の記事一覧

4月の展覧会

心配していた湯木ですが、GW向けに別の展示スタート。 この春はやたらに漆の展示が多い気がしますな。 東京近郊 期間 タイトル 備考 五島美術館 4/6-5/6 春の優品展 畠山記念館 4/6-6/16 麗しの漆 根津美術館 -4/7 遠州・不昧の美意識 ―名物の茶道具― 花見月…

仮説:楽焼の大きさと茶風

昔から、「長次郎の茶碗は小さくてノンコウの茶碗は大ぶりだなぁ」と思っていた。 んで、その理由を「二人の手の大きさが違うからじゃないか」とも思っていた。でも、そういうもんではないのかも?と思い始めた。仮説。 長次郎の頃…利休の頃は、吸い茶が始ま…

正倉院ぎれ7 終わりに

本書では、このあと正倉院ぎれに含まれるさまざまな織り方の技法や染織の技法が紹介される。また、あきらかに舶載の、すばらしい染織品の紹介/解説もなされている。…が、そいつは省き、読んだ感想を。 本書を読む前から「正倉院裂」とばくぜんとイメージして…

正倉院ぎれ6 出自からみた正倉院ぎれ

正倉院ぎれのうちわけ。 (1)光明皇后献納品中の染織品 (中略) 数はわりあい少ないほうだが、由緒という点からはやはり第一番に記しておかねばらない。 (1)は勅封の理由でもあり、最も国宝らしい豪華なものが収められている。 (2)東大寺大仏開眼会用の染織品 …

正倉院ぎれ5 正倉院ぎれの出自と用途

私が正倉院に関して知っている事は 校倉づくりである 東大寺にある 国の宝が収まっている という小学校レベルの知識だった。本書では正倉院そのものに関しても記述してくれていて、小学校レベルの私には大変ためになったのだった。 さて、いまをさかのぼる一…

正倉院ぎれ4 正倉院ぎれの出現とその背景

法隆寺裂より新しい正倉院裂の特徴は以下の通り。 まず織りかたでは、法隆寺系幡類の錦・綾はすべて経錦と平地綾だったのが、正倉院ぎれでは新らたに緯錦と綾地綾文綾が加わり、しかもそれらが量的に前者を圧倒するようになってくる。 (中略) つぎに文染では…

正倉院ぎれ3 法隆寺ぎれ

法隆寺裂とは。 法隆寺ぎれ──。すなわち法隆寺に伝存してきた染織品グループのことだが、正倉院ぎれがいまも正倉院宝庫に厳存しているのと違って、このグループの多くは、現在東京上野の国立博物館に収められている。 実際には法隆寺ではなくトーハクにある…

正倉院ぎれ2 日本染織の生い立ち

正倉院裂が国産品を多く含む背景の説明。まず、日本が古くから錦を作っていた証拠として、魏志倭人伝を挙げている。 この倭国(すなわちわが国)からの貢献品の実態がどのようなものだったのかについては、種々議論がある。しかしともあれ、魏人の眼からみて稚…

夜桜2013

近所にちっちゃなちっちゃな穴場の公園がある。桜が数本植えてあり、公園とその周囲の街灯が適切なライトアップになっていた。節電対策なのか、ライトアップなし。いつもは野点するけど、今年はあきらめた。2011年も、2012年も照明付いてたのにな。いまさら…

正倉院ぎれ

松本包夫/學生社/1982年。 この本は、正倉院展や種々の書物などで正倉院ぎれの実物や写真をみて、その全体像をもっと知りたいと思う人のために書いた、いわば正倉院ぎれの入門書である。 とまぁこういう本。出袱紗とかで正倉院裂とかいう名前に親しんできた…

茶禅一味

茶道支那行脚を読んで、禅についてふたつの疑問が出た。まず第一に、日本の禅と中国の禅は違うものでは?という疑問。道教的な素養が日本人にはないので、わけが判らないことをわけが判らないままに納得するという中国的なおおらかさが不足しているかもしれ…

頴川美術館 美と歩む

頴川美術館のコレクション展。ぶっちゃけ方向性は皆無。でも素晴らしい道具と絵画が見れる。長次郎赤楽茶碗「無一物」。 見るの何回目だろうか。根津で見た時はカスカスだったが、こちらでは(やや)しっとり。やはり照明の違いだろうか。 …お湯に漬けてから見…

大阪くらしの今昔館 中井家伝来茶室起こし絵図展

大阪市立住いのミュージアム/大阪くらしの今昔館にて開催されている大工頭中井家に伝わる茶室起こし絵図を中心にした展示。 企画展だけ見るなら300円。お値打ち。中井家は法隆寺宮大工の家系で、大阪冬の陣の大阪城砲撃に協力した大工マスター。その中井家…

湯木美術館 江戸時代の千家の侘び茶

湯木の春展示。 宗旦〜宗旦四天王中心の頃の展示。入口近くに宗旦の瓢花入「面壁」。 畠山記念館の道安の瓢花入「木菟」と比べると大きい。 でも作風同じ感じ。まあ瓢花入なんて誰が作っても似てしまうのかもしれんけど。白釉輪花口水指。仁清の変態的な精度…

藤田美術館 茶道具いろは

いろんなエピソードの有る茶道具をあつめた展示。利休斗々屋茶碗。織部が質屋に入れたと言ういわくのある茶碗。根来塗中次形茶入。初見。端正で美しい。古伊賀花生「寿老人」。耳のたれた力強い花入。樹林文茶碗。仁清らしいろくろの冴える茶碗。信長が勝家…

茶道支那行脚15 楊柳と庭園情緒

中国の庭園では楊柳が特別な木として植えられているという。 支那の庭園は大陸の縮圖たらしむるやう努められてゐる。 殊にその雲根を想像せしむる岩をあまた集めた太湖石の岩組みにいつも腐心したり、洞窟を出現せんとして見たり、西湖の寫した大畫になつて…

茶道支那行脚14 支那庭園と文字美

本書の後半は、中国庭園と日本庭園の比較論になっている。庭の様式自体は地理、気候の違いがあるので当然違うわけだが、意外な指摘もある。 又その折角、財を傾け、腦漿を絞り、設計の上に設計を練つて作りあげた庭園の事であるから、之にふさはしいだけの稱…

茶道支那行脚13 茶館の出入り

中国の茶館について。 されば支那に游び茶館を訪ねんとする者は單なる潔癖本位のカフエー、又そのカフエーのサーヴイス本位のことばかり考へ、そのコツで以つて茶館に出入したならば頓でもない間違ひを生じる。 又失望するであらう。 極端に云ふとよほど悟道…

茶道支那行脚12 點茶の無關心振り

支那の人の實生活は、あらゆる方面に線が太く現はれてゐる。 (中略) 第一その初め茶碗を持つて來るとき、八つも十も重ねたままで運んで來る。 そして之を一々卓上におかうとするとき母指を茶碗の内側の方へ入れて持つのだから内部に手の指紋がつくわけである…

茶道支那行脚11 支那の卓茶

著者は、日本は線が細く、中国は線が太いと連呼する。 同じく東洋の茶趣味、東洋の茶道と云へば日本も支那もたいして區別のないものの樣に考へらるるが、實際に於いては日本の茶道の濃やかで、且つ繊細な方面に心を配られるに對して、どことなく支那の方には…

茶道支那行脚10 茶と世道2

著者による日本の茶の湯批判は、概ねその線の細さに集中する。 世間で茶道を考へるのは、とかくお茶の道具を取り揃へることとか、茶室を用意することとか、やれ文琳の茶入れの、利休の茶匙の、やれ袱紗さばきの、お稽古日のと云つた風の事のみにあたまを使ふ…

茶道支那行脚9 茶と世道

茶が社会に与える「気分」について。 支那を南船北馬して四百餘州をあるいてゐるといふこと、そこには一木一石といへども茶趣味の方から眺めることも出來る。 (略) 又乞食を見ようと、兵隊を見ようと、易者を見ようと、僧侶を見ようと、そこには何となく茶の…

茶道支那行脚8 闘茶

宋の世以來茶の風俗として見るもののうちに闘茶と云ふがある。 という事で中国の闘茶のお話。 こは茶を互い飲むときその仲間同士の間で茶の水がどこから取り來たれるものであるかを當てつこをすることこれである。 茶の産地でなく、水の評価、というのが面白…

茶道支那行脚7 中国の茶房

さて、ついで中国茶道の特徴。 支那茶事の席上は、どうかと云ふと、之に反して 一、几帳面と云ふことよりも、萬事が大まかで、呑ん氣である、而かも客に対する持てなしはよほど社交的な點が濃かにある。 二、形よりも大陸氣分で、禪機の漲つてゐる事を判つき…

茶道支那行脚6 日本の茶房

著者の語る日本の茶房の特徴がなかなか面白いので全量引用。 一、几帳面で一種の垢抜けのした氣持が全體を支配してゐる。 二、形に囚はれたと云ふ氣持が抜けきつて居らぬ。無意識的にでもその感じが伴つて來る。 三、飾り付けや、道具が主ではないがしかし、…

茶道支那行脚5 茶席と茶器

中国では、茶席や茶器にさほど拘らないという。 しかし、コリまくった人だとそうでもないらしい。 要は本當の師匠になると云ふと、自分で茶圃から茶葉を摘み來たり、その製茶の要領で自ら監製してゐるやうである。従つてその苦心は容易でない。 (略) さうし…

あいたい「抹茶は楽しいあったかい」

NHK中国地方ローカル番組の、全国ネット再放送。ルー大柴こと茶人大柴宗徹が、なんかノーアポっぽい演出で松江を行脚する謎のテレビ番組。カラコロ広場から船頭さんに導かれて行く茶道具屋は千茶荘。あっちの茶道具屋に入るとありがちなんだが、まずおもてな…

茶道支那行脚4 茶禅一味

著者の茶禅一味の境地に関する考え。 茶を烹てゐるから茶道であり、經を誦じてゐるから禪であると云ふ見方はあまりに單純な見方である。月下、山寺に香をたいてゐるときであつても、庭に逍遥してゐるときであつても、いつも同じわけであるのだ。 ここまでは…

茶道支那行脚3 茶道

中国通の著者が語る中国の茶の湯は、日本の茶の湯への間接的な批判として読むことができる。 茶道と云ふと無暗みに上品ぶつたものと見たり、むつかしいものと考へたり、又實生活から遠ざかつたものであるとする傾がある。 けれども支那では別段八釜しく考へ…

茶道支那行脚2 序文

著者の自序より。 かく云へば茶道はその生活線上から幾分でも超越し得るもののみの占有する天地なる如く取らるヽ嫌ひがある。 けれども事實上、茶道はたとひ米鹽の資に窮する如きものにしても、その人の氣持の持ち方次第ではいかやうにとも之に浸り得るもの…