芸術新潮 樂吉左衞門が語りつくす茶碗・茶室・茶の湯とはなにか

樂の御当代が楽茶碗に限らず、いろんな名碗もって各所の茶室に行って、茶道具にかこつけて微妙に自分語りする、というなかムカツク企画。読んで、樂の御当代がどーしても好きになれない理由がわかった。


前にも書いたけど、御当代、アート指向、と私は思ってる。淡々と黒赤の茶碗だけ作りたくねー、みたいな。で、オブジェみたいな茶碗を作ってる。

私も御当代の微妙に80年代調のテクスチャ、それ単体なら悪くないと思いますよ。ソットサス*1とか大好きですし。
でも、それを茶碗でやっちゃうのはどうなの?と思うのです。

世の中には、でっかい陶の塊をお芸術として作っている人もいるんですよ。そういう人達と同じとこで勝負すりゃいいのに。そうしたら徳田八十吉みたいになるのかもしんないが。


でも茶碗でやっちゃうんだよね。その結果としてできたものって、僕には「茶席で使い難い茶碗」に見えるんだけど。用の美より作家性の方を突出させてしまった、みたいに見える。


アートはやりたい。ふつーに茶碗なんて作ってたくない。
でも収入は欲しいし、家のしがらみもあるしー。


みたいな姿勢を感じてしまう。でもそれって、千家十職にあぐらかいてないか?


…ってのが私の樂さん感。というか、もっと手短に言うと、樂の御当代って茶道具が嫌いなんじゃないか?と思ってる。


で、そんな人が「茶碗の歴史」を背負った面して雑誌に書いてたからむかついたんだな。多分。

あと、パンダ庵。あれもどーよ?ん〜。

*1:ごめーふくをおいのりします