千羽鶴

TVや映画でお茶の出て来るシーン、大抵はでたらめだ。正月TVドラマの「明智光秀」では、光秀と坊主が天目台無しの天目茶碗で二人で向かい合って茶を飲むシーンがあってなんだかびっくらこいたものだ。

この前ケーブルTVで「千羽鶴」という映画をやっていた。途中から観たので筋ははっきりしないが、茶碗の拝見とかめちゃめちゃきちんとしていた。調べると裏の指導がはいっているらしい。

なんか、中途半端で気になるので、原作を読んでみた。

川端康成、未完の作である。

純文なので頭と体のユルい男女がだらしないが為に巻き起こすどーでもいいような不幸を書いた内容なのは言を待たない。

「いやだね」しか言わないひねくれた青年と、亡父が世話していたストーカー気質のお茶の師匠と、亡父の愛人と、愛人の娘と、ひねくれ青年のなにが良くて結婚したがるかわからん清純なお嬢さんの間で、キモイ人間関係ができあがるお話。あ、もちろん「人間関係」ってのは単にセックスのことな。純文だもん。

この話の中では茶道具の来歴が亡き父とその愛人と自分の「人間関係」の履歴みたいになっていて、「エンガチョ」扱いされている。不憫だ。

いや、いまさら戦後期の純文読む事になるとは思わなかった。登場人物も作者も気軽に自殺するから純文は嫌いさ。主人公もヒロイン達も共感できないしね。ただまぁ「志野はエロい」という点には大い共感できる。

あとね、川端康成が悪いのではないと思うんだけど、「志野」「織部」「茶筅」程度のことにいちいち編者の巻末注が入っていて大変ウザイ。

簡単な事象に注釈入れるのは「私は想定読者をこの程度もわからん『バカ』だと思ってますんでよろしくぅ〜」ってな表明に他ならない。なんかムカつく。入れるんならはディックの「ヴァリス」の大瀧ばりに本気で入れてくれ。