茶道と家庭生活

角南元一/家政教育社/1949年。

作者は、利休と蒲鉾のえせ侘び茶人の話を例に挙げ、金持ちが侘び茶を行う事がエセであると批判し、こういいます。

抑も侘びとは第一に本当の貧乏を要素とします。それは貧乏のまねではなく、眞の貧ではなくてはなりません。

この辺で私は何を読んでいるのだろう?と疑問符が漂います。

おちぶれ果てた日本の台所や、苦しいやりくりの筍生活を解決していく原理は、眞の茶道にこそ豊かに用意されているのであります。
(中略)
早い話が、いま戦災都市の廃墟の中には、マツチ箱のやうな、または乞食小屋のやうなバラツクが立ち並んでゐますが、この九尺二間にも足らぬ超微細住宅の住み方について豊かな原理を提供する家政学は東西のどこにもありますまい。

そう。この本は茶人に向け書かれた本ではなくて、昭和24年、という日本が最も貧しかった時代を背景に、一般家庭に「茶道」という文化的な貧乏生活のやり方があるよ、と教える、一種の思想書だったのだ。

貧乏なら貧乏なりにお茶をやろうよ、と。まずは茶道でお茶の間から生活再生しようよ、と。

  1. 家族で順繰りに亭主をしてみよう。
  2. 待ち合いは縁側とかで工夫しよう。
  3. 懐石重要。栄養は一番重要。
  4. 子供もいるんだから盃事は原則禁止な。
  5. 茶は盆立て薄茶や煎茶でいいじゃん。でもやる事は略しても精神性は残そう。
  6. お茶を頂いたあとは清談の時間を設けようよ。

なんともほのぼのとした内容。

併し利休にあらぬ下手の家族がまだるい手附きでの手前をするのですから、手舞ゐの妙味や手さばきの美しさはさつぱりなく、つい退屈をし、傍の人とひそひそ或は声高に話を始めたりすることは有り勝ちなことですが、それは、鋭い皮肉としてきびしい批難として亭主へひゞくでありませうし、殊には、人の心を読み、相手の心づくしに、心入れするべき道にそむくもので、深く戒むべきことであります。

貧者として、気持ちでお茶をやっていこう、という本だけに、精神性に富んだ示唆も多く、読んでいて面白くためになる。

最後に最も重大なこととしてお茶の飲み方について申しておきます。飲み方言つても、茶碗の呑み口から呑むとか、三口半にのむとかいふ法式のことではなくもつと根本的な心得であります。
(めちゃめちゃ略)
無心にのむ、呑む行にすむ。それが眞の侘びであります。

これなんかかなり高度な示唆じゃないかい?


ちょっぴりインテリの空論、という感じがしないでもないけど、この本の持つ、ほのぼのとした感じはちょっと他に類をみない。


百年に一度の不況、とか言う昨今。貧を侘び茶に転換するこの本は、なにかしらの参考になるかもね。

濃茶をやめて、之に代えるには簡易な「盆立て薄茶」手前を以てします。それも不経済なれば「煎茶手前」と致します。
(中略)
併し煎茶道はなほ不経済なりとする家庭にとつては、直ちに日常生活そのものから出発して、何等因習にとらはれることのない、その故にまた豊かな創作の処女地をもつ「番茶道」を確立すべきであります。
(さらに中略)
番茶道なほ不経済なりとすれば、私は利休の心をくんで、「鍋湯道」また可なりと申したいのであります。

…すいません。無理です。ここまで日本を貧にしちゃいかんと思います。

茶道と家庭生活 (1949年)

茶道と家庭生活 (1949年)