台子の茶

今時点で台子の茶に関して思っている事を書いておこう。


まず、台子の茶は学習上の役にはあんまり立たないだろう、と思っている。

もちろん、台子の茶を学んでもなーんにもならない、とも思っていない。ただ、台子の茶を学ぶという事は、台子の茶の点前を学ぶ、と言う事にすぎず、それ以上はないのではなかろうかと思っているだけだ。

台子の茶はもっとも根本の真の点前でありこれを学ぶと草のお茶へも理解が深まる…という論があるが、私は懐疑的。ていうか台子の茶は根本の点前じゃないんじゃないか、という疑問がずーーっと、私にはある。

だって、根本のお点前を最後に学ぶ、というのが異常な感じがする。草書から始めて延々行書書くと先生が認めてくれて楷書書かせてくれる書道、とかあったら変でしょ。

根本となる点前が流派によって年々数が増えてきたり、性別や血筋で学べなかったりする、なんて、どうもおかしい気がする。


「台子が基本である」といっていい流派は、多分「有楽正傳流」だけ。

http://urakusadou.jp/

so-youさんのブログより抜粋:

http://blogs.yahoo.co.jp/soyou_i/archive/2008/07/08

「茶道正傳集」は炉の真台子の作法から始まります。
お茶のお点前としてはフルコースである、炉の真の台子の作法からあえて始まるのは、それが基本であり、その他のお点前は真の台子を簡略化したものと考えているからです。

フルコースを目標として設定することで、それを達成するために精進して一つ一つ積み重ねて努力していくことの大切さを教えています。

炉の台子ってのが正直判らないけど、ここまで明言されればちょっといいかも、という気がする。


あとに、台子の茶は実用上役に立たないだろう、とも思っている。

だって唐物漢作肩衝を使うお点前を実際にする事があるとは思えないもんね。

唐物名物を手に入れたあとで、このお点前を伝授してもらうかどうか考えればいいんじゃないだろうか?


最後に、ぶっちゃけ言っちゃうと、奥義とか秘奥というのは基本的に職業茶匠のお金儲けの道具、と思っている。

「なにかを伝授する」ということの前置詞に、隠れた「お金と引き替えに」というのが有るのは室町時代からずっとの事だから、それ自体は納得するんだけど、学習上も実用上も意味無いものを、伝統だからといって有料で伝授されるのはちょっと嫌だなぁ。


多分、うちの流派は台子の点前がないんじゃないかと思っているんだけど、実際どうなのかは良く判らない。

正直、今時点ではそーゆーのないといいな、と思っている。