茶道讀本

高橋箒庵/秋豊園/1936年。

箒庵の書いた茶の湯入門書、であるが、箒庵がお点前の仕方、とかを書くはずが無い。精神の話と道具の話と趣向の話が書いてある本である。


箒庵の近代数寄者らしさ、が色濃く出ていていろいろ面白い。


道具について、例えば茶入の話にはこんな事が書いてある。

又其名稱は茶事と關聯して趣味上最も感興を催すものなれば、茶人は成るべく名稱の異りたる各種の茶入を所有して、臨機應變之を適用するの必要あり、

「道具はありあわせの物で」とか言わないのである。


この本を貫いているのは三千家との対立姿勢である。

而して京阪に於ては、三千家が家元として代々京都に現存するが為、茶事を催すに當つては、概ね此等宗匠の指揮を仰ぎ、彼らの趣向に依りて、諸道具を選定する有樣なれば、関東に比して茶風の自ら低級なるを免れず

ま、近代数寄者は家元が大きな顔をしているのが嫌いなのがふつーだけど。

即ち世間の宗匠連が、手前一方を教授して、殆んど實際の茶事に觸れず、一朝茶會を催さんとすれば、疎漏百出して失敗に終り、不出来なる茶の湯を、俗に宗匠茶とさへ呼ぶに至つたのは、固より極端の事例では有るが、


茶を習う人が茶事を開かずに、滅多に使わないお点前の練習ばかりやっているのは箒庵にとっては嘆かわしいだろう。

また、箒庵の身になってみれば、わざわざ関西まで呼ばれ、行ってみたら趣向は主人が担当していない、ではつまらないの極地であろう。

当時の有名茶人の悩みは、毎日のように茶事に行くが、どこへ行っても同じ料亭の仕出しを喰わされる事だったらしいが、それの趣向版であろうか。


勿論、箒庵のバランス感覚は逆の事例をも糾弾する。

更に顧みて他方を見れば、所謂紳士茶人者流間に、最初より手前を度外視し、一夜漬の見眞似我流で、堂々たる茶陣に臨み、點茶の手順は、トンチンカンとなり、點てたる其茶は、彈丸交りで客を閉口せしむる者少なからず、

拙いものを堂々と蛮勇で、も嫌いなのだ。


箒庵は茶事の為に茶をやっている人である。

その視点での糾弾は、真向正面から振り降ろされる刀であり、かわしてはいけないものだと思う。

ただ、その近代数寄者的道具感覚は、残念ながらついていけないなー、的なとこがある。これは是非とも回避しないとね。