茶への批判

いままでいろんな茶書を読んで来て思った事は、茶書には茶を批判する内容のものがかなり多いという事だ。


珠光曰く:

此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしやう也。こふ者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無勿躰事共也、
(後略)


紹鴎曰く:

一 茶湯ハ深切に交る事
一 禮儀正敷和らかにいたすべき事
一 他會の批判申間敷事
一 高慢多くいたす間敷事
(後略)


明文律による注意事項がある、ということは、そういう事をする人がいたという事を意味する。


珠光も紹鴎も「茶室で人を殺すな」という明文律を提示していないのは、茶室で人を殺す人が滅多にいなかったからである。

逆に「他会の批判をするな」という明文律があるのは、他会の批判をする人が多かったあるいは目に余ったのであろう。


茶をやっている人は慢心、執着があり、名のあるものを嫉み、初心者を見下す。
深切でなく、和らかでなく、他会の批判をし、高慢が多い。


茶の湯は黎明期から、自己批判を内包しながらその歴史をたどって来た。



…でも全然、解決できてねぇ。



多分、今後も永久に解決できないんじゃないか。だって珠光や紹鴎が解決できなかったんだぜ?俺らにできるわけねーべ?…利休はむしろ批判されるべき人だし。


だから、茶の湯への批判ってのは多分虚しい。孤高になっても、自分を保つべしとは思うけどさ。


もっと楽しいものも読みたいな。「お茶、たんのし〜ぃ〜ん。さいっこー!」みたいな本。

でも、近代数寄者の時代が来るまで、お茶楽しいスタンスの本が出てたって話は読んだ事がねぇ。近代数寄者もちょっとうしろめたさ含みだしな。


修道、と言う事。禅の境地という事。数寄と侘びという事。こういった前提がいろいろあるので単純に「たんのしー」と言いにくいんだろうな。


でも僕は「お茶、たんのし〜ぃ〜ん。さいっこー!」みたいな事言って過ごしたいな、と思っているよ。