信仰心

信仰告白というのも変だが、告白すると、私には信仰心というものがまるでない。


なにか根源的で偉大な存在、というものへの畏敬の念がないわけじゃないが、昔どこかの誰かが作ったファンタジー、しかもいまいち整合性の悪かったりするそれに、畏敬の念、つーのを託する気が全然しない。


私の知る限り、世界の大手の宗教で「どんな理由であれ人を殺したら地獄行き。救われる事はない」という戒律の所が存在しない。人を殺すなかれ、という戒律を厳密には持たないクリスチャンも、人を殺すなかれ、という戒律を持つユダヤ教徒も、動物すら殺すなかれ、という戒律を持つ日本仏教も結局は人殺しを容認している。…ほんとデキが悪いファンタジーだよな。


ま、こういう事を考える事や言う事ができる日本を大変ありがたいと思っている。それに信仰心は無くとも処世としては理解しているし一応、TPOはわきまえているつもりだ。親の墓にだって手を合わせているし。


私は、信仰が無いからこそ、宗教には主体的に接するべきだと考えている。ふざけ、冒涜する時も自分の意志で行うべきだよな。


んで、茶の湯をやっていて困るのは、様式の中でなんとはなしに仏をいぢらされることだ。


禅や仏や坊主について、知識で回答する事はできる。それはまぁいい。だが処世で興味があるフリをしたり、感心したフリをすると、どうにも心がチクチクする。


仏教徒。禅でない仏教の人。大徳寺でない禅の人。こういう方々もなにかしらチクチクを感じながらお茶をしているんじゃろうか。それとも確固とした信仰を持っている人なら平然と耐えられるなにかがあるんじゃろうか?


せめて、自分のお茶からは注意深く宗教いぢりの要素を排除していきたいな、と思っている。だから自分の茶では墨跡はかざらないだろうなぁ。だって尊敬してないんだもの。坊さんを。

ま、今んトコだけどね。