利休に帰れ いま茶の心を問う その2

雰囲気はやわらかなのに、禅茶一如を禅僧の側から支持してくれる老僧の意見はとても厳しい。

野狐禅、あるいは口頭禅というものがありますが、これは口先だけの禅です。
禅には理論的な大系がありますから、口ではなんとでも言えますし、またそのほうが一般受けもするのです。
しかししょせん野狐禅です。茶の世界でも、このごろは相当口頭茶がはやっています。茶もまた、なんとでも言える。

イタイ、イタイですよ。

本流はどこまでも実際に修業する身をもって行うのです。理論や推論ではありません。

いや、判ってんですよ薄々どころでなく。

でもそう厳しくできていないのは不徳の致す所で、不徳な自分も判っていてなお、いまこうなんですってば。


…自然にリキミ無く生きている様にみえる老僧も、やっぱ厳しい修業の日々を通り抜ける事の出来た人で、後進も同じように修業しなきゃ、と思ってたわけか。

やっぱ禅っつーのは自力の世界なんだなぁ、とか思うな、やっぱ。