雅俗三昧

小林一三/雅俗山荘/1946年。

「新茶道」が戦後のエッセイであるのに対し、こっちは戦前に書き貯めたエッセイ。

戦後の逸翁が過激な茶道改革論者なのに対し、戦前の逸翁はやや過激な茶道改革論者くらいに留まる気がする。

"無茶な話"より:

(前略)
通俗的に言へば、茶道は常識であるといふ事になると思ふ。そこで初めて問題が起るのである。何となれば、常識は藝術ではないからである。そこに矛盾がある。
即ち茶道は常識であらねばならぬのに、それが常識である間は、面白くない。
藝術的に取扱ふことによつて初めてお茶の妙諦に觸れることが出來るのであるから言行一致が六ケ敷いのである。

守・破・離、というのがあるが、私もいずれ学んだものを発展させたいぜ、と思っている。まだ私は守の入口のトコにいるが。

でも、お茶は伝統にのっとった美意識の産物。どこまで「離」していいか、どこまで「離」せねばならんか、という難事を、実に簡単に言い表してくれている。


禁花の様な茶道の常識に対してもこう語る。

嫁入前の娘達や、それを指導する宗匠の立場に於ては、厳守することが可能であるとしても、それは教室の雰囲氣を出でない程度の楽しみであつて、藝術的に觀賞せんとする大人の境遇から見れば、此の種の常識論では物足らないと思ふのである。

亭主は、亭主だけの視点では常識的にも非常識にもなれる。
だが、客と非常識を共有できるかは、客次第。


教科書的なものを好む客には常識を、そうでない共犯者には非常識を供せばいいのではないか、と思うのだがどうだろう。