禅坊主と一行書
禅僧が、茶掛けの一行書を書く。
これが産業化してしまっている事に、いまいち馴染めない私。
ま、禅僧が禅語を書くのはいいんだ。「喫茶去」とか「関」とかさ。
だけどよ、禅語でないものを禅僧が書くのはどういう意味があるんだろう?
例えば。「一期一会」これ禅語でなくて、所詮は井伊宗観の造語だよなぁ。「忘筌」とか「和光同塵」は荘子や老子由来。他にも唐詩とか単なる故事とかを由来とするのも結構ある。
こういった、禅に実は直結していない文字列を、禅坊主に書いてもらうのってどういう意味が有るのか?
牧師さんの書いたコーランの文句、ぐらい意味がない気もする。
禅僧に対する尊敬オンリー?
それでいいなら、全部円相でええんやないか。
発注する方も発注する方だけど、受ける方も受ける方だな、って気がする。やっぱ単なる産業なんだな、とか思うけど、禅って経典に関する敬意すら薄い気がするので、むべなるかなって感じかもしれん。