無心

森田統“朝鮮茶碗と私”に、以下の様な話が載っている。

焼物作り、特に茶碗を作る陶工はまわりからよく批判される。私も随分といわれて来た。その内一番多くいわれたのは、無心で作りなさい、という言葉であった。
(中略)
開き直るようだが、本当に茶碗が無心で作れるものだろうか?

あー、言われそうだよねー。

作者は、良いものを作ろう、という気持ちは無心ではありえなく、無心に向上はないと断じている。

それは確かにそうかもしれない。

作意、というのはある程度明確でないと、発する方も受け止める方も、楽しくもなんともないものだ。

しかし、作意も行きすぎると作為になる、のかもしれない。

大きい声ではいえないことであるが、李朝の陶工のように、うまく荒土の挽きこなせない私は、いい石ハゼを出すために、茶碗によっては、泣き所に宝の石を埋める事がある。
(中略)
だが、たとえ結果がうまく出来たとしても、私には姑息さがなんとなくあり、うしろめたさが頭を離れない。

確かにやり過ぎな気はする…。しかし、その境界って、とっても難しいよね。

作者の作為を作為と見抜けなければ、受け手は単に感心するだけでいいんだし。