クラス感

今回は茶の湯の存在を知っている人/存在も知らない人。この二つを較べると層の断絶の様なものを感じるか?という話。


もちろん、その二つの間にはある種の層の違いを感じざるを得ない。確実に断絶はある、と思います。

ただ、その層というのは上下の層なのか?というと、それはちょっと違うんじゃないか?と思うんだな。


だって茶の湯なんて人生に全然必要がないシロモノ。趣味に過ぎない。そして世の中趣味は茶の湯だけじゃないわけですよ。


私は茶の湯の他に、シュノーケリングして魚と泳ぐ、とか、フランスの海軍について研究する、サッカーチームの試合に熱狂する、とか、まーいろんな趣味があるわけです。

そういった中で、実際「シュノーケリングについて話が出来る人と、出来ない人には層の違いがある」と感じるか?というと、感じるわけです。

でも、例えば私が茶の湯をやっていなかったとしたら、茶の湯をやっていている人も、シュノーケリングをやっていないという理由で、断絶の向こう側の人扱いですよ。


層は人それぞれに多重化するので、結果的に層は無いのもおんなじかもね、と思うのです。


じゃあ、茶の湯にはクラス感、あるいは階層の差を感じないか?というと、実は日々めちゃめちゃ感じております。


それは「茶の湯をやっていて持ちたる人」と「茶の湯をやっていて持たざる人」の格差です。

これは一つの評価軸内だけでの差異なので、明確に層があるのを感じますね。


しかも「茶の湯の存在を知っている人/存在も知らない人」の場合は、存在を知った人はそれだけで一応こちら側の層に属し直すわけですが、持つ持たない方はそう簡単に持ちたる人になれるわけじゃないですからねー。

ただ、それは室町時代からそうだったわけで、ま、世の中そんなもんなんでしょうなぁ。