岡倉天心の罪

松浦素「茶道の心」では、舞踊と比較してこう言っている。

ところが茶道の方は点前をいたしますが、これは決して人に、客に見せるものではありません。

全く同感である。


私は思う。岡倉天心は、この件に関して断罪されねばならないだろう。

もちろん、「茶の本」でthe tea ceremonyという言葉を作った事について、だ。


この用語のおかげで、世界で茶道はあらぬ誤解を受けているのではないか、という疑問もあるし、そもそも天心は茶の湯を「茶の儀式」なんぞというクダランものと観ていたのではないか?という重大な疑念も生ずる。


ま、実は彼はTeaismという言葉も作っているのだが、外人を納得させるのはthe tea ceremonyの方だった様だ。


不審庵の英語ページでは、茶道に対してtea ceremonyという言葉は使われていない。Chanoyu、である。
今日庵の英語ページには、way of teaで統一されている。但し、tea ceremonyという言葉自体は禅寺の茶礼の話として使われている。

どちらも注意深く排除されているのだと思う。

官休庵の家元ご挨拶の英語ページでは、profileにPerformed Tea ceremonyという言葉が使われていてちょっと不注意な気がする。

遠州流は「Welcome to Enshu's Tea Ceremony Home Page」と書いてあって萎える。

俺は遠州流には厳しいぜ!

book of tea

http://www.gutenberg.org/etext/769

茶の本

http://www.aozora.gr.jp/cards/000238/card1276.html