墨跡を巻き取る

12月20日のエントリにて、松屋会記をベースに

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20091220

花に限らず「初座の墨跡を中立に巻いて片付ける」という実例は一つもない、と言う事だ

と書いた。

では、松屋会記でなく、天王寺屋会記他会記ではどうか。

意外に早期に「初座の墨跡を中立に巻いて片付ける」という実例が見つかってしまった。

宗達他会記 天文十八年:

卯月五日朝 下間兵庫殿會 人數 達 榎与
(中略)
一 きたう字、懸テ、但、茶過テ、字マキテ、松山石を金ノ鉢ニ立、(後略)

虚堂の墨跡→盆石である。ただ「茶過テ」なので、中立ではないと思う。
なお下間兵庫は一向衆の坊官である。創価学会幹部、みたいなもんだ。禅僧への尊敬なんて全くなくてもおかしくない。むしろなんで虚堂を持っていたのかの方が不思議。


宗及他会記 天正三年:

同二月二十九日 京辻玄哉會 及一人
床ニ墨跡、カケテ、但、手水ノ間ニ巻候
(中略)
一 なすひ、持出テ、手水之間ニおかれ候、方盆ニすへ、床之間ニ有之(後略)

これは墨跡→茶入の流れ。天王寺屋会記で中立で墨跡を巻いた初出である。


あと宗及他会記 天正四年の佐久間甚九郎殿會では、墨跡→虚堂の墨跡というのもあるが、これは所望によるものなのでカウント外でいいだろう。

宗及他会記 天正六年:

同十一月八日朝 宗二會 叱 訥 及
炉 如常、
床 蜜庵ノ墨跡、 後ニ筒カケテ、但、菊ヲ宗及生申候、

これが墨跡→花の初出の可能性は有るが、

  1. 墨跡を巻いて片付けたとは限らない
  2. 「後ニ」が中立とは限らない

ので微妙。


宗及他会記 天正三年の京ノ道三會、天正九年の高石ヤ卜意會、天正十年の松江隆仙の會では、墨跡が手水の間にどけられてしまっている。続いてなにかを飾ったと言う記述は無し。ってことで理由不明。


結論としては「初期茶道に墨跡と花の諸飾りは無い」でも「たまには中立で墨跡を巻く事もあった」に修正しようかと思う。

ただ、辻玄哉にせよ、山上宗二にせよ、千利休の師匠筋/弟子筋であるのは注目点かもね。