茶の湯の“もったい”

茶の湯の世界にはいろんな“もったい”がついている。

「盆へ右手より始れるは陽の器故」「陽のカネに三分の一かかり」「懐石とは禅僧は温石」みたいな、茶の湯の様々を説明する“もったい”達。

陰陽五行。曲尺割の丁半。禅機。真行草の位。

こういった理論ってのは茶道に連綿と伝えられて来たもの。多分、師匠から弟子に「あった方がいいから」構築され、伝承されて来た理論なんだと思う。


茶の湯とは只湯を沸かし」という境地から考える*1と、本当にこれらの“もったい”が必要なのかは疑問に思わなくもない。

つまり、私としては近寄ろうとも思わない禅。信じてもいない陰陽五行。私にそれらに基づく“もったい”は本当に必要なのだろうか?


でも“もったい”をいろいろ省いて、それでお茶が面白くなるものなのか…というのも、すっごく疑問が有る。

行くとなんだかさらっと終り、そこのしつらいへの理解のとっかかりが何もなく、ああ、お茶おいしかったね、だけで終るお茶ってのも、理想的なのかもしれないが、もしかすると死んだ様につまらないのかもしれない。

面白い“もったい”は残し、やっかいな“もったい”は追放する、なんて事ができるとも思えないし。


難しいよね。多分、今まで通り“もったい”を尊重してつき合い続ける、というのが実際なんだろうねぇ。お茶をお茶足らしめて面白くして来た理論体系が、正直、時代に合わなくなってきているとは思うんだけど。

*1:茶の湯とは」自身もシンプルな“もったい”である事も忘れてはいけないと思う。