古事類苑10 台子を習う

(今更ながら)茶話指月集より:

ある時、豊臣關白秀吉公、始て千宗易に臺子の茶湯仕べきよし仰出さる、そのころ辻玄哉といふもの古來の臺子をしる、宗易玄哉所へゆきて古流をならひ、御殿においてつかうまつる、公上覧の後、われもむかし臺子をならふ、汝が茶湯格にたがふところあり、
(後略)

  1. 秀吉が利休に台子の茶を命じた。
  2. 利休は台子の茶を知らなかったので辻玄哉に習いに行った。
  3. 利休は台子の茶を略式で披露した。
  4. 秀吉は「俺が昔習った台子と違うよ、なんで?」と尋ねた。

というお話である。この後の展開は今回扱わない。この話が示す、1700年頃の台子の価値が今回のテーマである。


この話から言える事。

  1. 利休は秀吉に言われるまで台子の茶は知らなかった。
  2. 利休より秀吉の方が台子の経験は長い(先生だれ?)
  3. 利休は台子を略式に実施しても構わないと思っていた


…もし台子が茶の重要な秘伝で、それを知らねば茶の湯を本当には理解できない、様なものならば、利休は人生の大半を茶を理解せずに過ごし、その上で茶湯名人と呼ばれ、筆頭茶道に成り上がった事になる。しかも習って最初にやったのが台子の簡略化である。


ちなみに秀吉が関白になったのは天正13年(1585年)。この時利休63才である。死んだのは天正19年。台子を知って6年くらい生きたって事か。ま、本当言うと辻玄哉が死んだのは天正4年らしい。秀吉の最初の茶会はやはり天正4年、これじゃ時系列の考証しようもないのであるが。


茶話指月集は、藤村庸軒が宗旦から聞いた話を、久須見疎安が聞き書きにしたもので1701年刊行。

刊行された当時、こういう話を書いても構わない程度にしか台子の茶は価値が無かったのではないか?と考えている。