古事類苑17 船頭

茶湯古事談より:

上京後藤が露地は小堀遠州の好みにて出來し、加茂川を志かけて大キなる泉水あり、
待合より堂腰掛までは船に而行なり、舟頭は小坊主のよくこぐ者也、
中流にて舟ちんに肩衣十徳おかせ給へと、無理にとらせて、夫より袴ばかりにて路次入なり、數寄屋は三疊大目也、
(後略)

後藤家の露地は遠州好みで、加茂川を引いた巨大な池があった。
待合から堂腰掛までは渡し船で移動。船頭は元気な小坊主さん。
でも中流までくると船賃に肩衣か十徳置いて行けと、とってしまう趣向で、そこからは袴に長着の姿で露地入りになった。数寄屋は三畳台目。

ってとこか。

京の豪商のとてつもないお大尽っぷり。しかもそれでいて茶席は三畳台目っていうのが面白い。もしかすると、こんなんだけども「侘び茶」という扱いだったのかもしれない。

考えてみると、室町・桃山のお茶は豪商のものだった。
江戸初期の侘び茶ってものも、まだまだその流れにあったのかもしんない。

この頃、同じ上京には宗旦がいた筈だが…「乞食宗旦」扱いされても仕方無いね、こりゃ。