古事類苑19 ちくでん

茶之湯六宗匠傳記より:

千利休は生國泉州堺の人にて、(中略)
唐物の茶入、利休見てほしく思ひ、右の藤四郎の脇指をうりて、七拾五枚に茶入をかい取、あまりの見事なるに、かんにたへ、不覺頭巾を取てなげし故なげ頭巾と名付、(中略)
後おごり有て禁裏より御いましめにあひ、逐電し自滅す、其時天正九年二月廿八日に死す、死後宗易と云、(後略)

…あまりに突っ込みどころが多くてどうしたものやら。

ただ、「逐電し自滅す」に関しては

晴豊記より:

天正十九年二月廿六日、宗易利休事也、曲事有之よりちくてん、(後略)

とある。勧修寺晴豊の日記に「ちくてん」とある以上、利休が逃走しようとした、という情報が流れていたのかもしれない。


利休は粛々と切腹した、のか、逃亡しようとして殺された、のか。

本当の事は判らない。でも、もし後者の風聞が一般化していたら、千家の現在は無かったろうし、茶道の今もないと思う。

んで、秀吉(と三成)はどうとでも風聞を演出できた、と思う。でも利休に不利な様にはしなかった。むしろ利休美化に力を貸した様にも見える。謎である。

…しかし、殉教者"利休"というものがドンダケその後の茶道に益したか考えさせられましたわ。