古事類苑20 革新

濁語より:

近世に茶の道を弘めし人は利休宗旦等が外には、片桐石見貞昌、小堀遠江守政一なり、
此の人々は貴賎異なれども、皆聖賢に非らず、常の人なるに、
今の茶人、必此の人々のしわざを學びて、
是は利休が法、是は遠州の法、是は石州の法とて、禮法を守る如く、一向に堅く守りて
、少しもたがはじとす、かたはらいたきことなり、
今にてもあれ、世に勢ある人、茶を玩び、先輩にかはりて新きわざをし出さんに、
くみする人數多ありて、是彼にて其しわざを學びてせば、やがて一流となるべし、

昔茶道を広めた人達は、身分はいろいろだけど、別に聖人ってわけでも賢者ってわけでもなかった。
なのに今の茶人はみんなこういう人の真似ばかりして、そこから出ようとしない。おかしなことだ。
今だって、茶で遊び、先人から学んだ技を新しくし、皆が学べば、それだって流儀になるはず。


って事ね。

これを書いた太宰春台は江戸中期の儒者


4/6の数寄屋の話でも判る通り、茶は好きだが清潔感がないのが嫌みたい。「今の茶の道は、きはめていとはしきわざなり」とか言ってる人。


利休が最高で、誰もその域に達せないんだから、せめて利休がやっていた事をなぞろう、というのが茶の湯の大方の思想。

でもそれに対し、先人の技を遵守するだけじゃ駄目、どんどん時代に合わせて進化させようよ、という革新的な思想は、例えば逸翁などにも顕著だったけど、常に敗北してきた思想。今後もおそらく敗北を続けるであろう思想。

でも、その思想の発端は、江戸中期にも既にあったんだねぇ。