古事類苑24 不用の美

茶傳集より:

瀬田掃部の作らせた普通の阿弥陀堂釜に対する、口の狭い阿弥陀堂釜持ちの利休のコメント。

茶の湯の道は十分の物はウマキとて嫌ひ申候、一二ケ所も頑所有物よく候、
掃部鑄させ候釜は頑所なく口も能程なり、
十分志たるものは、御道具と云て數寄には不用、代も高く仕事也、
茶の湯道具は頑所ある故、代不仕候、されども人々の見立にて高くも仕候、
たゞもいやと申すも數寄道具にて候由、利休申たると仰なり、

茶道で十分なものはウマキといって嫌がるものです。一箇所か二箇所、不具合があるくらいがいいのです。
掃部が作らせた釜は不具合もなく、口も程良い大きさです。
十分なものは、お道具といって数寄には使わないし、値段も高くなるのです。
茶の湯の道具は不具合が有るから代も安いのです。皆の見立てによっては高くもなりますけど。安いのも嫌というのも数寄道具だからですけど、と利休は言ったそうですよ。

…ってトコか。


茶道は昔から不完全の美というのを追求して来た…とされる。
しかし、茶傳集の意見だと、実用部分すら不便にしてもいい、としていた様だ。

茶の湯の美は普通で言う美でないし、さらに実用すら犠牲にしてもいいらしい。
民芸の言う用の美とは隔絶してるね。良い悪いの話でなく。