古事類苑27 売僧

太閤記より:

泉州堺津菜屋助右衛門といひし町人、小琉球呂尊へ去年夏相渡七月廿日帰朝せしが、
其比堺の代官は石田木工助に有しゆへ、奏者として、唐の傘、蝋燭千挺、
生たる麝香ニ疋上奉り、御禮申上、則真壷五十御目にかけしかば、事外後機嫌にて、
西丸の廣間に並べつヽ、千宗易などにも御相談有て、上中下段々に代を付けさられ、
札を押し、所望の面々、たれ/\によらず執候へと被仰出さるヽなり。
これによつて望の人々、西丸に祗候いたし、代付にまかせ、五六日之内にことごとく取候て、三ツのこりしを取て歸り侍らんと、代官の木工助に菜屋申ければ、秀吉公其旨聞召、其代をつかはし取て置候へと被仰られしかば、金子請取奉りぬ。助右衛門五六日の内徳人と成にけり。

津菜屋助右衛門という町人が東南アジアから帰って来た。
堺の代官は石田三成の兄正澄。彼を通し、中国の傘、ろうそく100本、
生きた麝香猫2匹を献上したら、秀吉ことのほかご機嫌。
ルソン壷50個をお見せしたら、利休と相談して、上中下のランク分けを
西の丸で行なってくれた。しかも値段も決めてくれたし、大名へも紹介してくれた。
5,6日でほとんど売れ、3つ売れ残ったのを持ち帰ろうとしたら秀吉が
買い上げてくれた。助右衛門は数日で大金持ちになった。

ってことか。

  1. 石田正澄が話をつけてくれた
  2. 秀吉が値段を付けた

って事をわざわざ書いているのが面白い。

秀吉が値をつけた段階で利休を売僧とけなせないんじゃねーの?って事と、
この話に三成親族がからむ事で、利休の死が堺の利権に絡んでるんじゃないの?って事を示唆しているんじゃなかろうか?

ま、太閤記の記載なんだから眉唾でしょうが、庶民の感覚として、そうであったからそう書いた、という可能性はあるよね。