砂雪隠

古書を読んでいると、雪隠に対する記述が微に入り細に入り書いてある。
非常に丁寧というか、むしろ執念みたいなものを感じる。

例えば、砂雪隠の戸を開けてあるか/開けてないかで、客は風炉/炉の区別が付く、というのがある。

これは、逆に言うと、風炉か炉は、客が行ってみるまで判らない、という事だったんだろう。炉と風炉で足袋の履く履かないを変える時代はすごく重要な事だったんだろう。

んでもって、夏は水を撒けだの、砂を掻き上げて触杖を置け、とか、砂雪隠はセッティングだけでも本当に大変である。



でも現代の茶事の本で、江戸時代のそれ程に砂雪隠について書いた物に出会っていない。
たぶん、水洗化の影響だと思う。
私の世代だと、汲み取り式トイレの異臭を覚えている人もいると思う。
砂雪隠とは、それに対するアンチテーゼ、の筈。
しかし、地べたに砂の偽トイレより、水洗便所の方が清潔だったりするからね。

って事で、砂雪隠、というとんでもないスノビズムは、現代になって廃れた、と思う。


こんな感じで、事実上滅んでいくスノビズムって増えないかなーとマジ思っている。

露地とか、突き上げ窓とか、袴付とか、ほんと無くなって欲しい。
ビンボニズムの意図せぬ信奉者としては。