武野紹鴎研究3 實隆と紹鴎

若い頃、歌人を志した紹鴎。その詳細を武野紹鴎研究では三條實隆の日記からあきらかにしてくれている。

實隆はその日乗に、「竹野」と書いて、暫く戸惑つてゐる。
新五郎といふ名も既に忘却してゐた。
(中略)
紹鴎が二度目に、それは五月六日であるが、實隆をこの度も印政と訪れた時、實隆は、「堺者」と書いた。その姓すら深くは、實隆にとどまらなかつた。

というトコからスタートして、贈り物攻勢で段々入り込んで行く。

興味深いのは、鱸などの魚を取り寄せて贈っているところ。
京都へ新鮮な魚を運ぶのは、結構な出費だっただろう。

併し、紹鴎は最後迄、この偉大な「非凡な凡人」實隆を見とつたやうだ。

そこで云へる事は、紹鴎の歌は、師の實隆の影響を受けてゐるが、可成り功者であるといふ事だ。

紹鴎が、歌人から転身して茶人になった、という説に対し、歌人として駄目だったから茶人になった、というのと、歌人としてはダメではないけど茶人になった、というのでは印象が全然違う。

師の實隆の死んだ頃には茶の方を面白く感じ、いまさら新たな歌の師匠を得ようとは思わなかっただけなんじゃなかろうか?と思った。