茶事の小道具

数江瓢鮎子/主婦と生活社/1992年。

懐石道具の次に、同じ作者の茶事の本を。

茶の湯をする人のことを茶人といいます。
ではお茶さえすれば、誰でも茶人になれるのでしょうか?
どうもこの言葉は曖昧で、どことなく胡散臭い感じさえつきまとっています。
何故でしょうか。
このことは、むかしも今も変わらぬものがあったらしく、茶人とは何かという定義づけが、『山上宗二記』によると(中略)

山上宗二記の話は省略。

近代では茶湯者(宗匠)と数寄者(素人)の二つの型の茶人が残されることになりました。
ところがこの両者の差別が近ごろは失われてきたように思われます。
つまり純粋の数寄者はほとんどいなくなったからです。
何人かの弟子をもてば数寄者ともいえぬ、さりとて茶湯者とも呼べない、そういう茶人が急速に増えたわけです。

僕は素人だけど、たぶん著者がいう数寄者ではないと思う。

著者は、ある程度以上の技術と、それなり以上に道具を持つ人で、お茶事での交流を頻繁にしている人を想定しているのだと思う。


純粋な数寄者ってのがいなくなった、と著者が認識しているのは、たぶんあまり金持ちがお茶をしなくなった事に起因するからかもしれない。


でも、もっと大きいのは、お茶の教育プロセスが、先生を増やす為のカリキュラムになっていることだと思うんだけどね…

人数の多寡にかかわらず、弟子をもつ茶人は、それ相応の責任が生じます。
教えるのには、それだけの修行が必要であることは当然です。
そういう人たちは、むかしは師匠について内弟子として、十年から十数年にわたる惨苦の修行によって鍛えられたのです。
本書で取り上げたような、茶事の小道具の知識や扱い方は、おそらくそういう修業を経て、見よう見真似でおのずと身につけたものでしょう。

昔は先生よばわりされるには大変だったけど、そうでもなく先生になれてしまう、ということかな?

ところが、そういう制度がほとんど失くなってしまった現代では、多くの人たちはむかしの修業と逆に、書物によっていろいろ学び、それを実践によって身につけるより他はないでしょう
本書が世に出る理由は、それを措いてはないと、自分でも思っています。

問題意識があるけど、解決はできないのでせめてフォローしよう、という作戦か…実に現実的な考えで書かれた本なのね。