禅味不用

茶禅一味、はお題目としては格好いいが、もはや実際的ではない気がする。

だって、想定する一般的な「お客様」って、ふつーに禅に興味ないでしょ?
そんな状況で亭主が一方的に禅の境地を押しつけるのはどうよ?
逆に禅に通じたお客様を想定すると、半可な禅味はよっぽど失礼になるのではないか?

となると禅語の墨跡は「用の美」から外れた存在。読めもしなきゃ理解もできないに成り果ててないだろうか?

ま、織部だって別に読めやしなかったんだから、昔からそういうもんだ、と言えば言えるのかもしんないけど。