みせびらかしの歴史

茶道の歴史を「みせびらかしの歴史」として考えてみる。

我々が今日『茶道』として認識しているもののはじまりは、おそらく利休より少し前の時代に遡る。それ以前の茶礼や闘茶や東山での茶が『茶道』とどう継るか、正直疑問があるので、そこ以降を考えてみたい。

利休以前は『唐物』をみせびらかす為に茶があった。利休直前あたりに『高麗物』がみせびらかされる対象に加わった。利休はそれに国産品と自作を加えた。織部も国産品+自作の流れを推進した。

このころ侘び、という概念が発生した。これは趣向/心映えをみせびらかす行為であって、道具をみせびらかす事がメインストリームに存在しないと成立しない。

また、秀吉は「誰と茶会を開いたか」を見せびらかした。黄金の茶室で正親町帝にお茶を点て、北野では徳川家康を筆頭に序列をつけてみせた。

遠州の時代には国産品をみせびらかすのは当然になっており、唐高麗との関係悪化もあって国産品に格付けする時代になった。不昧公も同様。

江戸時代は結局商人の時代である。冬木屋の様な大店が茶道具を買い漁ってみせびらかしていた。一部の裕福な大名を除き、武士はみせびらかす道具を持てなかった。なので「南方録」の様な精神性重視の書物ができた。

明治が来て西洋ブーム。アジアングッズである茶道具は「みせびらかし」の対象外へ。旧大名家が売り払った事もあり、茶道具が市場で動き廻る世の中が来た。

そこで成功した旧士族と大商人達が茶道具を買い漁る大正昭和の茶人の時代が来た。

大正昭和の茶人達がそれ以前の茶人と違ったのは以下の二点だろう。

  1. 高橋箒庵により、茶会が世に公開された。
  2. 茶人達が集めたコレクションを市場に流すのを止め、美術館を建設するようになった。

前者により茶はぐっとパブリックなものとなった。そして後者により、茶人はついに、茶会を開き茶を呑ませる、というアクションもなしに、不特定多数の客に茶道具をみせびらかすという事ができる様になった。

そういう意味で全国にある茶道具美術館の展示は「点前も接待もなしの茶会」と言い替えていいと思う。

半面、美術館のコレクションに収まる、という事は、市場で茶道具が流通しなくなる、という意味も持つので、本能寺で失われたごとく、茶道界から失われたとみなせるかもしれない。

これ以降の世代は少々金があったからといって名物をみせびらかす茶会ができなくなる。「じゃぁいったい何をみせびらかそうか?」という点を考えて行かないと、茶道は衰退するかもしんないなと思う。