お茶を知らぬものから見たお茶

泥佛堂無茶法師。茶道全集其の二茶會作法篇より。無茶法師は川喜田半泥子のこと。

珍妙な素人茶事の有り様を描いた一編である。ちょと長いけど、文体含めて面白いので引用する。

お懐石が出てお櫃を受け取った法師は、お櫃の蓋を次客の老人へ渡すと、老人其の蓋を敬しく兩手で高く差上げて、ためすがめつ、松王の首驗よろしくといふ見えで、眺め廻した擧句の果てに「これは結構なお蓋で」と汗だくで法師へ返してきた。

これには法師も面喰らつたが、きまりの惡い思ひをさせてはと思つたから「左様結構なお蓋で」と相槌を打つて、今度はお櫃に蓋をして手渡すと首尾よくパスした。

やれやれと思つて見てゐると、其のお櫃が首尾よくお詰めまで行つた時給仕口へは置かれずにお詰めの紙問屋の旦那が心得顔で法師へ返しにきた。變だぞと思つて明けて見ると果してカラツポだ。仕方がないからどうとでもなれと思つて次客へ渡すと、一巡りして又紙問屋の旦那からお正客へ逆戻り。かうして三四度逆戻りをしてくるうちに段々皆が手馴れてきて、ソラきた、ソラ行けッ…と屋根葺人足が瓦を屋根に搬び上げるやうな氣で運動かたがたやって居た。

こんなことが連發されたので、今日のお客は矢張りうまく選んであることが分つて一層空氣が和やかになつてきた。

和やかになってんじゃねーよ、とか突っ込み待ちなのがなんかうれしい。

この流れだと、「だからちゃんと基本的な作法ぐらい押えておこうよ」となりそうなものだが、半泥子がそんなこと言うワケが無い。

皆、普段はまともな方々なのに

それが一度お茶席に入ると、行儀も常識も何處かへ置き忘れた人のやうになって飛んだお笑草をやる。なぜもつと此の人達の平常通りのやうにやらないのであろう。

とくる。

普段、お櫃の蓋なんてうやうやしく見ないでしょ、お櫃の空になったら下げやすい場所に置いとくでしょ、茶道っていうとどうしてトチ狂っちゃうかなー、普段通りにしようよ、と言っているのである。

あんまり重々しく考えない方がいい場合もあるって事だよな、多分に。

半泥子は月イチ授業(但し久田宗也を津まで呼び付けであるが)の自作系茶道家としても、イカス文章家としても私の憧れである。

…にしても茶道全集は面白すぎる。