墨跡の価値は

掛物ほど第一の道具はなし。

茶室の中でほぼ唯一宗教的な道具であり、その価値は、本質的にその禅師への尊敬で決まる、と思う。

茶道全集器物篇(1)の「墨蹟」伊豆山善太郎著にはいろんな禅僧の墨跡の評価が連ねられている。

澤庵宗彭も大徳寺物の範疇に入る書も大分書いた人で、割に力の無い書を書いたが、大徳寺物嫌ひの山田氏から「澤庵も稍俗氣があるが、近世では擧ぐるに足りる。」と褒められた。
渓仙畫伯は「澤庵和尚は小さい。有名なる割合に大さがないやうである。封建時代の精神に知らず識らずのうちに捉はれてゐたのであらう。」といはれた。

近代数寄者たちに澤庵が評価いまいちだったのが判る。
あの世代はどうしても反徳川の気分が残っていて、徳川の中枢にいた為に禅者としての評価が低かったのだろう。私には澤庵は割と男らしい字に思えるのだが…。


さて、複製墨跡というのがある。表装の品とか紙の経年はともかく、字の部分だけみたら区別しづらいくらいの複製が出来るようになっている。

掛け物の本質が、宗教的な尊敬であったなら、ある禅僧の書を所有する、ということより、その僧が何をどういう字で書いたか、の方が重要な筈。


さて、一休宗純の複製と最近の禅僧の真筆。どっちが格が上?


宗教的な尊敬なら前者でいいんじゃないか?とか思う。思うんだけど。

いや、うちに高橋悦道の軸があるんだ。「こりゃどうかなー、つーかこれで金取ったの?」ってくらい適当な字。

でもそんなしょぼい軸でも一休の複製より格が上に感じてしまう。

禅僧を尊敬しているわけじゃない/道具を尊重しているだけ。そんな自分が浮き彫りになるね。
そう考えると。