茶之湯の釜
長野垤志/熱海商事/1970年。
序の文:
釜は茶席で初めから終りまでその座を占めていて、無くてはならない道具です。
茶会の案内にも「釜かけ申候」と書かれ、又は「亭主不在は釜を以ってこれに代う」とまで言われる、この重大な役目を持つ釜が今まで茶をたしなむ人に関心を持たれなかったのは、何故であろうかと不思議に思われましょうが、これは陶磁器のように鑑賞を本意とする研究団体も出来、分類研究も進んだものと違い、一般に釜はむづかしい、と言われて関心が持たれなかったことゝ、専ら鑑定をする釜師が不勉強であったがため、文様のある釜は芦屋、膚の荒れた釜は「天命作」と極めたがため、陶器の如き分類の面白さが理解されず、今日に至ったものと考えられます。
この文が、この本をほとんど説明している。
つまり、こういう事。
- 釜師は勉強不足である。
- 釜をもっとちゃんと極めたい
長野さんは、すんごいフィールドワークでこの二つを解決するのだ。
まず、「芦屋」とはどこの芦屋なのかを探る為、日本中の芦屋めぐりをする。
そして旧家等に伝わる日用の釜を調べまくる。釜を分類する為に、鉄地金の厚さや色だけでなく、鋳型への湯の流れ方まで調査するのだ。
ちょっとものすごい執念の一冊。
感心するけれど、まだ私には早すぎるかもしれない。読んでもまだ釜に対しての眼ができていないので、極め方の為の文章を読んでもぴんとこないのだ。
また、実地の釜をいろいろじっくり観てから再チャレンジしたい。