お茶杓拝見

瀧静夜/龍吟社/1948年。

終戦直後に出版された、茶杓の銘に関する本。
様々な作者の様々な銘を研究した本でもあるのだが、前半の茶杓論こそ筆者の真骨頂だろう。

「お茶杓は」と云ふと、殆ど十人が十人、必ずきまつたやうに「春風」とか(中略)兎に角小氣のきいた洒落た名前を云ふと、ああ左様でございますか、それは結構な、どうも難有うございました」と云つたことを、蚊が鳴くやうに云つて鳧がつく。

我々も現在、やっている「茶杓の銘」という奴が、筆者は御不満。

筆者は言う。茶杓なんて所詮、美的工芸的にはただの竹箆であると。

ではなぜ茶人はそれでも茶杓を珍重するか。

たとへそれが木切れ竹箆にすぎないものであらうとも、その人々の清純無垢な魂が宿つてゐると思ふと、そこにおさへ難い愛惜と追慕して惜かなかつたものだとすれば、それならそれで又その手澤のあとに、亡きその人達の面影を偲んで、仄々として逼る追慕の情は自から千金萬金の價を生むのである。

つまり、

自然茶杓は人あつての銘で、銘は單にその由緒を語る符帳にしか過ぎないものである。

なんとなく綺麗事で「梅の香」とか言っても仕方がない、という事らしい。

ここまでは判らなくもない。でも。

假令お稽古であるにしても、單にあッさりお手製の銘を告げて、澄まして居るのは洵に智慧の無い話だ、否お稽古なればこそ(中略)「織部虫喰の茶杓」とも、堂々として披露した方が、どれほど實感が伴ふかも知れない

んー。過度のロールプレイを茶杓に強いるのは、個人的に反対。

300円ののっぺりした茶杓にこんな嘘銘付けるのは恥ずかしいじゃん。


理想的には「ちゃんと銘のついた見所のあるいい茶杓」を使ってお稽古したいなぁ。