茶の湯古今春秋 その8 夜桜茶会

夜桜茶会のテーマは、釣釜。

著者は言う。

松屋会記の慶長十三年の釣釜の茶会を最後にして、釣釜が出てこないので、慶長十三年までの茶会について述べる事にしよう。
(中略)
このうち釣釜は、一、0二八会で、二七パーセントである。
夏の釣釜は、非常に少ないから、炉の時分には、二会に一会釣釜をしている事になる。
(中略)
これによると、現在炉の名残りとして行われている三、四月は旧暦の二、三月になるので、合計すると一三六会にすぎない。全体の一割である。
(中略)
室町末から、桃山時代にかけての茶人は、寒い時に釣釜をするのであって、釣釜の時期を制限していない。
初期の茶人は、年柄年中釣釜をしているか炉端に集まるという修正をそのまま茶の湯に持ち込んだのである。

炉の釣釜、そして初期茶道に見られた風炉の釣釜は、町人感覚の発露であった、と。

ところが町人たちは、台子の点前をするよりも、釣釜のある台所の炉で抹茶を点てたほうが便利であり、親しみがある。
(中略)
武士階級の手に茶の湯が渡されるや否や、台所の釣釜に親しみを持っていない武士階級は、釣釜を日常の茶飯時とする観念がない。
かくして釣釜は、茶の湯から疎外されてしまうのである。

しかし、利休の死後、茶が武家の物になってからは釣釜は廃れたと。


傾聴すべき意見である。

が。

宗旦は町人茶道もいいところで、しかも武家に阿る必要のない…というか阿らなかった人である。

千家でも釣釜が名残の茶としてしか残っていないことの充分な説明にはなっていないと思うのだが、どうだろうか?