正客争い

平常心是道、というパンフが手元にある。

昭和40年の淡交会京都支部文化講演会、の講演会を起こしたものである。

鵬雲斎が割ときれい事をふふふんって話している講演会なんだが、以下のくだりには妙ななまなましさがあった。

まあお茶席でなければ兎も角どうぞどうぞと譲りあいで中々席が決まらない。
もう大抵すみっこの方に皆坐ってしまって上の方があいてしまう。
(中略)
ひどいのになると兎も角自分の周りを映画館の場所取の様に、なるべく顔見知りの人を自分の横に寄せたいという様な事をしてられる光景を私は度々拝見するのです。
お茶というものはそういうものではないんです。
兎も角、折角席入してそして正客から順序正しく決められて入っている訳なのです。
それならば若くても年を取ってても自分が正客の坐につかしてもらえるという事はほんとうに有難い事だ、勉強させて頂きます、という気持で自分が正客の坐に坐らせてもらった時の謙虚さというものがあったらそれが一坐に皆移っていくのです。
正客にうっかり坐ったら後でどんな目にあうかも解らないと、あの若造のくせに正客に坐ってという様にじろ/\と分別くさそうに見られると、失敗でもしたら大変な事だと正客はやめておこうと引き込みがちになるものなのです。

鵬雲斎が言うことを裏返すと、

  1. 正客になると、あとでどんな目にあうかわからない。
  2. 若造のくせに、とじろじろ睨まれる
  3. だから皆すみっこに座る
  4. 周りが知合いだと安心→知合いでないと不安→一座建立する気なぞ無い

ってことですな。

家元がこんだけ力説しても正客争いはやまないんだから、家元の指導力なんていっても…ゲフンゲフン、弟子達は家元の言うことなんて…ゲフンゲフン、まぁお茶の逃れざる一面、という事なんでしょうなぁ。