茶話指月集と南方録
茶話指月集と南方録。
南方録は、近年は研究が進み、ほとんど偽書として扱われている。
正直、私も偽書だと思う。だが価値が無いわけではない。
前にも似たような事を書いたことがあるが:
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20090614
茶話指月集を読み直すとまた、その感慨が深まる気がする。
茶話指月集と南方録。その利休像は結構違う。
茶話指月集は、美に厳しい利休という男が行動でどう美を示したか、を描いている。
南方録は、美に厳しい利休という男が、美をどう語ったか、を描いている。
おかげで茶話指月集の利休は、ほとんど変人で、様々な人にいやがらせの様な美の強要を行っている。ある意味パワハラまがいである。
南方録の利休は、豊かな言葉で我々に「茶人は、こうあるべきですよ」と諭してくれる。
茶話指月集の利休は:
休、「数奇に出だす道具は、粟に芥子をまぜたるように組み合わするが巧者也」といいし。
南方録の利休は:
小座敷の道具ハよろづ事たらぬがよし、少の損シも嫌ふ人あり、一向不心得の事也、今やきなどのわれひヾきたるハ用ひがたし、唐の茶入などやうのしかるべき道具ハ、うるしつぎしても一段用ひ来り候也、サテ又道具の取合ト申スハ、今焼き茶碗ト、唐の茶入、如此心得ベシ(後略)
茶話指月集の利休はそっけないし、南方録の利休は判りやすくたっぷり語りまくりである。
もし南方録が早期に偽書扱いされ普及していなかったら、お茶はこんなに普及していないかもしんない、と思う。