竹窓茶話3 侘

紹鴎の侘びの文や、石州秘事五ケ條の中に「天下の侘の根元は、天照大御神にまします」と誌されてゐる。
蓋しいかなる金銀珠玉を鏤ばめ、殿作り仕給ふても、よろしいのに、萱葺、白木造りの宮柱、黒米の御供、その他、何から何まで、慎み、おこたり給はぬ御事、畏しとも畏き極であることを云うのである。
(後略)

いや、それは紹鴎さんの勘違いだと思う。


一国の王が宮殿の造営どころか補修も許さず、質素な生活をする…というのは中華の理想の王の姿であり、天照大御神はそのパチモンだっただけだ。


侘びという美意識と、為政者が小さな政府で国民負担を下げようとするのを一緒にするのはおかしいだろ。


さて、この文の締め。

數寄を不遇と解すると等しく、侘を不自由、不足、不調とみて、之を苦にせず、之に困せず、之に執せず、之に着せず、よく之を超越して、怡樂をその内に求め、人生に潤あらしむることは、時局柄まことに相應しい心遣であつて、かくしてこそ、茶道も實生活に即して意義があると思ふ。

昭和19年の文としては、あれだ。欲しがりません勝つまでは、の流れなんだな。
こっちはこっちで侘びという美意識と、戦時の窮乏生活を一緒にしているわけだな。

どっちもどっちって感じだね。