茶の湯と生花3 道安の死

明治の頃信じられていたかもしれない千家の系譜。

道安
初名紹安不休齋眠翁病故に家を不継
嫡男なれども利休に先だちて死す天正十五年七月朔日

始めて聞く歴史。

天正十五年といえば秀吉が九州を平定していた頃。
利休も松に天竜釜を掛けて野点している場合ではなかったんじゃなかろうか?


別の所の千家の歴史もこうある。

利休の嫡子道安は利休に先だちて死す少庵は養子なり

やはり道安は早死だった様だ。

利休凶事の後蒲生氏郷に預けられ會津に住す氏郷は利休の門弟たるゆゑに殊に懇篤なりしが慶長寛永年間恩免を蒙り其上禄を賜はる然れども病身年年の參勤心に任せざるを憚りおもひて終に采地を辭して退休せり

利休の自刃後、少庵は会津に逃げていた。

道安は阿波の蜂須賀へのがれて阿州にあり同所にて卒す

道安は阿波に逃れていて、そこで死んだらしい。

…。

同じ文章の中で道安二回死んでるんですけど?


この辺の種本は立花実山の「壷中爐談」なのだが、種本にない「道安は早死」を挿入したが故に矛盾してしまった。


嫡男道安が千家を継がなかった理由、というのは未だに判らないわけだけど、今よりも家というものの感覚の強い時代に、この事をなんとか納得できるものにするため、道安を病弱にせにゃならん雰囲気があったんじゃなかろうか?


その為に道安が足が不自由だ、とかそういった説もできてきたのかもしれない。



しかし二十二回も版を重ねていたのに誰も修正しなかったんだろうかね?