点前は見せるものか

はなこさんから面白い問題提起があったので、それに関しわたしの意見を述べたい。


テーマはふたつ。

  1. 点前は人に見せる為のものか?
  2. 点前を見せる意識と侘びとは対立するか?


「お目だるい」「お退屈さま」の挨拶に、「点前は亭主が客に見せる為のもの」という自意識が含まれているのか、というのはひとまず置こう。


でも、お客様をわざわざ呼びつけて来ていただいて、だるかったり退屈させたりするのは亭主の本意でない筈。


そもそも見せないでいいなら、あれほど厳粛な点前作法は必要なかろう。茶筌の位置が畳の目一つずれていたからって、茶の味に影響があるというのだろうか?

そもそも亭主が客前で茶を点てて見せるのも不要で、点て出しでいいんじゃなかろうか?


そういう意味で、茶の湯の点前は「他人様に見せる為にある」のだとわたしは考えている。


では、「他人に見せる茶」と「侘び」の意識に対立はあるか?という点。


わたしは「他人に見せる」意識と「侘び」に顕著な対立はないと思っている。

むしろ侘び茶人だからこそ点前は上手であって欲しいと思う。


ただし、私の思う点前というのは「うまくなればなるほど所作が自然で、目にひっかかることもなくいつのまにか終わっている」というもの。ケレン味があるのは下手だからこそと思っている。


自然な点前とケレンのある点前は対立するが、だからといってケレンのある点前=他人に見せるもので、自然な点前=他人に見せる意識のないもの、とは思えないんだな。


…ちなみに、うちの流派のシメの挨拶も「お退屈様でした」なんだ。
すまない。