高橋箒庵は、護国寺に茶室を寄贈し、他人にも寄贈させ、不昧の墓を作り、ここを東都の茶の総本山にしよう、と考えていた。
その甲斐あってか、護国寺は、東京で最もメジャーな大寄せの会場になったと言えるだろう。
が、それだけ。
大徳寺の様な茶との繋がりは持てなかった。
護国寺の住職の茶杓とか一行書とか見たことないし、もし出されても「ふ〜ん」くらいにしか思えなさそう…まぁ大徳寺でも「ふぅ〜ん」くらいだけどな。
この理由は多分、護国寺が真言宗であるから。
大師会に参加していた箒庵には、茶の湯と真言宗との間になにかしらの説得力を見出していたのかもしれない。
でも、一般には理解されなかったんじゃないかな?